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6.272019
宮沢賢治の持つ世界観に共感

東方学会永年会員・日本文藝家協会会員
いわて教育文化研究所 顧問 吉見正信さん(90)
今回のシニアズ特集にご登場いただいたのは、本紙でも連載を続けてきました吉見正信先生です。本紙には「文芸評論家」として、中国古典文学に関する随筆をご寄稿いただいていましたが、「宮沢賢治研究家」などのさまざまな顔をもつその人物像について、クローズアップしていきたいと思います。
父親ゆずりの工夫好きと好奇心
吉見先生は昭和3年に現在の東京都杉並区に生まれました。本人が見た自分像は「変わり者、アウトサイダー、天の邪鬼」ということで、小さい頃から見たことがない人や物への興味がつきず、工夫することが大好きな子でした。中学校へ上がる頃は戦時中だったため、入学試験などなく面接と書類審査だけで、その面接の際に趣味を尋ねられ、「趣味は工夫をすること」と明言。そのような価値観に理解がない時代だったため、面接官に叱責されたこともあったそうで、「そういう性格は父親ゆずり」と、当時を回想します。
先生の父は大の発明好きで、大正7年には「吉見式折りたたみ椅子」を発明し、上野博覧会で板垣退助総裁から一等賞を授与されたほどだったとか。 その後、時代は厳しい昭和15年戦争時代と移ります。学徒動員による工場での作業に駆り出されますが、あまりの過酷さについに倒れ、焼け跡だらけの東京の親元に戻されてしまい、終戦を迎えました。
知らないことへ興味を持ち、突き詰める性格はその後も変わらず、終戦から5年後の1950(昭和25)年に大東文化大学中国文学科を卒業し雑誌記者の道へ進みました。

探求心は止まらず単身で岩手に移住
ところが吉見先生はわずか二年足らずで雑誌記者から高校教員へ転身し、岩手県へ移住して来たのです。
吉見先生に岩手に移住した理由を伺うと「なぜ岩手県かと云えば、昭和25年には、朝日新聞社によって、平泉の歴史遺跡に科学調査団が入り、ミイラが発見されたりetcと、そんな日本があったのか。と大変なカルチャーショックを受け、ならば石川啄木や宮沢賢治も出ている未詳の地と心ひかれ、単身赴任してきました。世の中が落ち着いたら三・四年で東京に戻るつもりだったのですが、それどころか毎日年々岩手のエキゾチズム(異国情調)に「ハマッテ」しまい、気がついたらもう結婚し、宮沢賢治屋さんになってしまっていた」と吉見先生。
退職後も非常勤講師ながら岩手大学・富士大学・国立八戸高専・花巻高等看護専門学校でも忙しく、世の中はラジオ・テレビの電波放送が発展して行く時代となりました。
そんな時代の変わるタイミングで、吉見先生に大きな出会いが起こりました。「そのころ岩手では他県にまで出前出演に東奔西走しているフリーアナで人気絶頂の川村龍雄さんと一期一会という人生の奇蹟に遭遇したのです。その出会いにより『エフエム岩手』ラジオ放送の『いーはとーぶトーク』番組に『しゃべるエッセイ』としてのイーハトーブエッセイを毎週(土)朝7時40分から10分ほど、岩手を元気にする話題として放送してきました。今年で26年目になりますが、川村アナとの二人三脚道中番組となっています」と笑顔で語ります。
「宮沢賢治の
『 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 』
という、グローバルな世界観に共感しています。これぞ全人類が地球市民として受けとめる重い使命感です」と強調する吉見先生。「今こそ宮沢賢治が唱えた幸福論や世界観こそ、21世紀に託したグローバルな《世界精神》と重く受け止めたいと、私は提唱していますが。それは、岩手県花巻市と、神奈川県平塚市が姉妹都市として友好都市提携をして10年・20年・30年…と現在以降も交流を深め、若き次世代の市民が躍進しているのを見ても、頼もしいかぎりと私は感じ入っています」と吉見先生。
宮沢賢治とのふとした出会いをきっかけに、元来の旺盛な好奇心をライフワークに活かしている吉見先生。そうした生き方はどの世代にも輝いて見えるに違いありません。先生はこう話してくれました。「一つでも夢中になれることに出会う、人はそのために生きているのかも知れない」と。
◆プロフィール
吉見正信さん
1928(昭和3)年、東京都杉並区生まれ。戦時中に青春時代を迎え、大学卒業後は雑誌記者に。その後岩手県に移住し、高校教師の傍ら宮沢賢治の研究に明け暮れる。主な著書に「宮沢賢治の道程」「宮沢賢治のデクノボー観」「宮沢賢治の原風景を辿る」などがある。◆吉見先生出演『エフエム岩手』ラジオ放送
『いーはとーぶトーク』
インタビュアー:川村龍雄さん時間:毎週土曜日朝7時40分~(10分ほど)
岩手を元気にする話題を放送。今年で26年目。川村アナとの二人三脚道中番組となっている。
ホームページURL:http://www.fmii.co.jp/ihatovtalk/