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東北人の義と誠

東北・山形県での祖父母との暮らし

 神奈川県横浜市で生まれた水谷さんは3歳の時に父親を亡くし、山形県に住む祖父母の元に預けられました。小学6年生まで、冬には2メートルもの雪が積もる豪雪地帯の南陽市で過ごしたそうです。「祖父は南洋貿易の幹部をしていた大金持ちでしたが、戦後に資産を手放して小さな家で暮らしていました。明治生まれの祖父母はとても厳しく、泣いても怒られましたが、生き方だけは真っ直ぐに、中途半端にしてはいけないと教えられました」と水谷さん。生活は貧しく、白いお米は食べられなかったため、麦ご飯やすいとんが主。当時の貧しさを思い出すため、今でもうどんが苦手なのだそう。
貧しい生活の中でも水谷さんが前向きに暮らすことができたのは勉強を頑張っていたから。

「勉強だけは極めてできた。でも飢えて勉強したため、
ゆとりのない勉強だったから学者になれなかったのだと思う」。

人を変えるために教師の道へ

 水谷さんは中学から横浜で母親と暮らし始めます。中学生のころから母親と一緒に識字教室で“先生”となり、日本で暮らす外国人に字を教えていました。その中で差別や貧しさに苦しむ人々を身近に見て、社会の矛盾を感じ始めます。高校時代は学生運動にも参加したそうです。その中で強く感じたのは「社会がどんな体制でも、全ては人だ」ということ。そして「教員になって人を変えよう」と、教員の道を目指します。大学時代にはドイツへの留学も経験し、大学卒業後より高校の教員になりました。

 教員としての転機が訪れたのは34歳の時。東京の夜間定時で教員をする友人の「腐った生徒に教育なんかできない」という言葉に奮起。「腐らせてしまったのは我々だ」と生徒数800人、日本一の規模の夜間定時高校、横浜市立港高校で勤務を始めます。授業を始めても話を聞かない生徒が多かったためコミュニケーションを取ろうと始めたのが夜回りでした。学校外でたむろしている生徒たちに「学校に戻ってこい」と声をかけ続けました。はじめは「うざったい」と跳ね返されていましたが、徐々に生徒から相談を受けるように。自身の勤務する学校の生徒以外にも声をかけるようになると「港の水谷先生」は、横浜で有名な存在になっていきました。

つながりの深い岩手子どもは地域の宝

 水谷さんは1990年代から夜回り先生の活動で岩手県を訪れていますが、以前から岩手とのつながりがあったのだそう。「映画『私をスキーに連れてって』のカメラマンが高校時代の友人だったので、撮影に呼ばれて安比に来ました。山頂から滑り降りるシーンの先頭は僕なんです」。撮影に来たことを機に、盛岡市の人々ともつながりができ、何度か岩手を訪れているそうです。

 先日は盛岡市内で講演会を開催しました。「私の講演を聞いている親、祖父母世代に〝この1年間笑顔溢れる家庭だったと思う人は手を上げて〟と聞くと誰一人あげなかった。笑顔のない家庭の中で被害を受けるのは子どもなんです」と水谷さん。「自分に自信があり、人から愛されている人間は、心にゆとりがあるので人を傷つけない。でも常にしかられていたら、そうはいかない」と訴えます。

 現在、水谷さんは登下校中の子どもたちに声がけをする活動を全国に広めています。「元気な子には今日も元気だねと、そして下を向いている子にも声をかける。声をかけられた子は自分に気がついてくれたと、生きる力になる」と話します。
水谷さんは山形で暮らした幼少期、食べ物をもらう、励ましの声をかけてもらうなどして地域の人々に助けられながら暮らしてきたそうです。

「岩手の子どもたちに地域の宝物として接することができたら、
悩み苦しむ多くの子どもを救うことができる。
子どもを幸せにできないような人間や国に未来はないと思っています。
子どもを笑わせるのにお金なんていりません。抱きしめればいいんです」


水谷青少年問題研究所 水谷 修さん(63)

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1956年、横浜生まれ。少年期を山形で過ごす。上智大学文学部哲学科卒業。
横浜市にて、長く高校教員として勤務し、12年間を定時制高校で過ごす。
教員時代は、長年生徒指導を担当し、中・高校生の非行・薬物汚染・心の問題に関わり、
深夜の繁華街のパトロール活動を行ったことから「夜回り先生」と呼ばれた。

現在は現場での経験をもとに、専門誌や新聞、雑誌への執筆、テレビなどへの出演、
日本各地での講演などを通して、子どもたちが今直面しているさまざまな問題について訴えている。
花園大学客員教授

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