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4.282020
経験を活かして

さわや書店 代表取締役社長 赤澤 桂⼀郎 さん(75)
盛岡市大通にある創業73年の「さわや書店本店」で、元気に表の掃除をしているのは株式会社さわや書店3代目社長の⾚澤桂一郎さんです。
縁側で人に触れ世の中を知る

茅町(現材木町)に⽂房具店のせがれとして生まれた赤澤さん。小学校は桜城小学校だったといいますが、当時の桜城小学校は9クラスでひとクラスが60名と多く分校の河北小学校ができて五年生で移ります。河北小学校ではノートや鉛筆を運んで商売をしていたとか。そんな赤澤さんを育てたのは縁側だったといいます。
「住み込み店員や、おじさん、おばさんがいて、近所のおじさん、おばさんなどいろんな人たちが縁側に来る。そんななかで揉みくちゃにされて育ちましたからね。ひねくれたこともあったけど、⼩学校の先生に助けられたりもした。世の中に出る前にいろいろな経験ができたのが縁側でした」
⾚澤さんは、盛岡商業高校を卒業後、実家の⾚澤号に勤めます。勤めて暫くすると、祖父が戦後取得していた本店の土地に、5階建のビルを建て文房具を販売しながらテナントを入れる業務を始めます。その時に、管理者として男手が必要だったこともあり、⾚澤さんが常駐。「文具もやりましたが、他にも雑貨から瀬戸物、種苗店もやりました」と笑います。そんななか、創業者の⾚澤与次郎さん(祖父)が亡くなります。
「今まで商売をしてきたなかで祖父の背中が大きかった」
祖父が遺⾔書を書いて公正証書として公証人役場に預けていたことから、弁護士に呼ばれ聞かされた内容に⾚澤さんは驚きます。
「遺⾔書には葬儀に呼ぶ人の名前から、会場の選定、御膳の配列まで細かく書いてありました。そのなかでも2代目社長を⾼橋トヨに、3代目社長を赤澤桂一郎に、その他の関係者は⼝出ししないことと書いてあったのには驚きました。創業者の祖⽗は同じ⾚澤でしたが、私の父は祖母の連子でした。血縁関係のない私の名前があるはずがないとも思っていました。今考えても明治の人は凄いなと思う遺⾔書だったと思います」
体験を活かし経営に向き合う
その後、赤澤号本店と茅町支店も大きな打撃を受けます。「もともと材木町は北大通商店街と言って、国道4号線でしたが、国体時期に新しい道路ができたことで客足が遠のき閉店しました。あの時に、繁華街は動くということを体験しました」。
その後、⾚澤さんは経験を生かし多店舗化の経営に力を入れます。「本屋はスクラップアンドビルドがしやすい業態。状況が悪くなったらスクラップにしてまた新しく作る。そうすることで雇用が守られると考えています。さわやには良い社員が揃っています。本が好きでよく読む。昔、経営が難しくなった際、人員整理した時は本当に辛かった。銀⾏にも言われ、そうしないとさわやが残らなかった。ただ生き残ればいい、⽣き残りさえすればチャンスがある」と赤澤さん。

『高橋克彦の水壁アテルイを継ぐ男』
「今は本屋のない街が出てきている。本屋に行くと⽬的以外の情報が手に入る。そこから想像力が養われると思います。昔、『さわや』なんてどこの飲み屋だと冷やかされ『さわや書店』に社名を変えたものでした。今後は書店だけではなく、情報文化を提供する『株式会社さわや』の時代がくると思っています。新しい⽅法で店を広げていく、それが成功するかしないかが俺の第二ラウンドのステージですね」と意気込みを語ります。
そんな赤澤さんの日課は6時に会社にきてからの全館のトイレ掃除。「元気の秘訣は体を動かすこと。朝の日課もそうだし、⽇曜⽇は材⽊町から山賀橋まで⾏って、⼤日如来まで歩く。⾃分は申年で⼤日如来は申年生まれの守護本尊だからね。頭が動いたくらいしか尻尾は動かない。⾃分が動いて背中を見せることが⼤事だと思っています」と笑顔を見せてくれました。
さわや書店 代表取締役社長 ⾚澤 桂⼀郎 さん(75)
1944年生まれ。盛岡市出身。桜城⼩学校・河北小学校・上⽥中学校・盛岡商業⾼校卒。創業73余年の「さわや書店」の3代目。現在は本店を中心に、釜⽯店・イオンタウン釜⽯店・松園店・雫⽯店・フェザン店・オリオリ店・ポルタ・マジカ店・野辺地店・ラビナ店・アクシス仙北校・アクシスフェザン校を経営