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伝え受け継ぐ鉄の心魂

(右)南部鉄器伝統工芸士会 会長 田山 和康 さん(69)

(左)タヤマスタジオ 代表取締役 田山 貴紘 さん(37)

岩手には馴染みの深い南部鉄器。その歴史は17世紀中頃まで遡り、南部藩主が京都から釜師を招いて茶の湯釜を作らせたことが始まりとされています。その伝統は、今や日本を代表する工芸として海外からも注目されていますが、その伝統を脈々と繋いでいるのが南部鉄器伝統工芸士会会長である田山和康さんです。

幼少期から物づくりが好きだった

現八幡平市大更に男ばかりの6人兄弟の3番目に生まれた田山さん。父は製材所に職工の傍ら、家でも作業をよくしていたそうで兄弟の中でも好奇心旺盛で幼い時から父の物づくりをそばで見ていたといいます。

「親父は人に頼まれては下駄の刃を替えたり、包丁の刃を研いであげたり、何かと作ることが好きだった。その影響で親父の道具を借りては余った木材を使って物を作って遊んでいました」

中学卒業後は、大好きな物づくりを学びたいと工業高校に進学希望をするも幼い頃から赤緑色弱を患っていたのもあって断念。時を同じくして家族で親しくしていた方の紹介で第13代鈴木繁吉盛久氏が弟子を探しているという話があり、見学に行くとその場で弟子入りを決めたそう。「皆目分からない世界でしたが純粋に楽しそうだった。師匠もさることながらお客様もお花の先生など一流の方ばかりでここで辛抱できればすごい仕事ができるはずだと思った」と田山さんは懐かしむように振り返ります。

師匠の背中に学びを経て

 15歳で飛び込んだ南部鉄器の世界。弟子入りした工房は盛岡藩のお抱え鋳物師の家柄だったことから作法には気を付けたといいます。

「弟子入りした当時、師匠はすでに70歳。厳しかったけど孫のように可愛がってもらった。師匠は学生でもお金持ちでも区別しないで接される方でした。一番近くで仕事も見て覚えたし、師匠は茶人でもあったので茶会にも同行して『いいお道具』に触れたことはとても大きい経験でした」

自身の道具も良いのがなければ自身で造るというこだわり

 住み込み時代には作業終わりの工房を使わせてもらい、深夜まで自分の作品を制作させてもらったという田山さん。「職工にはなるな」という教えから妥協しない物づくりを学んだ田山さんは82歳で師匠が亡くなるまでに多くの賞を受賞するまでになりました。

 師匠没後、14代、兄弟子と続けて亡くなり、工房の仕事を一手に引き受けるまでに。その頃には弟子もいて後進育成にも注力していましたが、弟子の作品に対する甘さを感じたことから「このままでは次の人材は育たない」と感じ、60歳で工房を退職することに。

先の南部鉄器と新たな継承のかたち

鈴木盛久工房を退職した2011年、田山さんは母屋の敷地内に「田山鐵瓶工房」を開設。その際に今まで作った作品すべてに見直しをかけ、図面も改めて引き直して今の自分の思い描くものに写し直したそう。

「南部鉄瓶の歴史がなぜ今まで続いているのか。時代に応じてデザインも形状も変化してきたからです。使う家族の人数も変われば鉄瓶の大きさも変わる。炎の使い方で用途も仕様も変わる。今ではIHですしね。図面を書き直したのは、時代に合う物に変化させる意味合いもありました」

南部鉄器職人継承の想いとして、田山さんは「これからの時代はどういった熱源が出てくるか。これからの時代に対応するのはこれからの職人の役目。ただ、その変化に対応できる技術を教えていくのは我々の役目。技法は文章化できても技術はできない。技術があっての伝統だから、発想や工夫のできる環境を育てることが本当の継承だと思っています」。

令和天皇即位を祝い、献上されるほど最上級品な田山さんの作品

工房開設から2年後には息子の貴紘さんが帰郷されてそこから3年間、マンツーマンで技術継承し、今や多くの孫弟子に囲まれる毎日。田山さんの制作意欲の炎は消えず、今でも昔のように深夜に工房で制作することも多いとか。現役で伝承をする田山さんにあの頃の師匠の姿が重なります。


南部鉄器伝統工芸士会 会長
田山 和康 さん(69)

1950年生まれ。西根町(現八幡平市)大更出身。地元中学校を卒業後、無形文化財・第13代鈴木繁吉盛久氏に師事。作品は県下及び国内の名だたる賞を受賞し、2010年フランスアルザスにおける南部鉄瓶EXPOにて実演。2011年、鈴木盛久工房を定年退職後、田山鐵瓶工房を開設。現在は息子の貴紘さんと共に作品を制作。趣味は畑いじりと時代小説を読むこと。日本鋳金家協会会員。

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