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日々、できることを全力で

川口印刷工業株式会社 代表取締役社長 
齋藤 誠 さん(70)

「学校から帰ったらすぐ、友達と遊ぶために家を飛び出していくような子どもでした」。そう言って、少年時代を懐かしむ齋藤誠さん。6人きょうだいの次男(5番目)として育ち、父は川口印刷東京工場の工場長。時々父の仕事場に顔を出したりもしていたそうです。

気づけば、父と同じ道

「当時の愛読書だったマンガ本の印刷に父の会社が携わっていて、少し誇らしい気持ちがありました」と齋藤さん。将来自分も同じ道を歩むとは想像していなかったそうですが「思えば、物心ついた時から印刷が身近なところにあったんですね」と振り返ります。

 小学生の頃はセミ捕り名人。中学で理科と数学、歴史が好きになり、高校時代は本の虫に。国内外の名著を片っ端から読み「それぞれの世界観や人生観に触れるのが楽しかった」と話す齋藤さん。大学受験を考え始めた頃、巨大ダム建設を描いた映画「黒部の太陽」に影響され、土木工事技師になりたいと思ったそうです。

「土木のほか印刷にも興味があったので、両方の学科を受験しました。そうしたら印刷工学科の方が合格したので、こちらの道に進むことにしました」

 大学卒業後は、研究室の恩師の薦めもあって愛知県の印刷会社に就職。印刷の品質管理や技術開発を担当しました。しかし6年が経った頃、父が体調を崩したことをきっかけに、東京に戻ろうと転職を決意。1979年、縁あって父の職場だった川口印刷工業東京支店に再就職しました。

仕事を通じ、さまざまな人生の師に出会った

 川口印刷工業東京支店では、営業、総務、生産管理など幅広い業務を担当。社内外のいろいろな人と関わる機会が増え「それぞれの人生観、考え方に触れ、視野が広がった。仕事を通じてたくさんの人生の師に巡り合うことができた」と話します。なかでも印象に残っているのが、営業担当だった得意先から大クレームを受けたこと。

本社1階ロビーには、創業からの歴史と歩みを紹介しているコーナーが。なんと「荷札」を最初に制作・販売した会社なのだそうです

着物のカタログの仕事だったのですが、OKの出た校了紙と違う色味で刷り上がってしまったんです。
5日間徹夜して作り直し、なんとか納品。
ごくろうさま、と声をかけていただいたときは心からホッとしました

 このときの真摯な対応で得意先の信頼を取り戻し「これからの仕事は、すべて君に頼む」と言われたことが忘れられない、と齋藤さん。「仕事にトラブルはつきもの。ごまかさず誠心誠意対応することが大事なのだ、と身をもって学びました。その方とは今も交流があり、思い出話に花が咲きます」と当時を懐かしみます。

印刷は、生涯の仕事

 東京支店に入社し9年が経ったころ。盛岡の本社が工場を新設することになり、齋藤さんは責任者として盛岡へ転勤。同時に取締役本社工場長に就任します。

「工場が完成し軌道に乗ったら東京に戻る予定」だったはずが、以来ずっと盛岡暮らし。生産本部長、営業本部長を経て、2006年に代表取締役社長就任。企画・デザインから印刷・製本までワンストップで手がける川口印刷工業のトップを務めるにあたり、営業も工場もひと通り経験したことが役立っていると話します。

あのサザエさんの印刷も手がけていた川口印刷工業。印刷物をはじめ「北東北エリアマガジンrakra」の企画編集も行っています

「製造と営業は、ぶつかるんですよね。どちらも一生懸命だからこそ、意見が合わない。両方の立場をおもんばかった上で全体を俯瞰し、判断するのが私の役割」

 会社を取り巻く環境が刻々と変化する時代、116年の歴史を持つ印刷会社として「培った信用と信頼を大切に、お客様の良きパートナーであることを心がけたい」と齋藤さん。今回のインタビューが、自分の半生や人生観を振り返るいい機会になったと語ります。

気づけば半世紀近く、印刷業界に携わってきました。
こうして振り返ると、私の人生から印刷を取ったら家族ぐらいしか残らない。
改めて、これが生涯の仕事なのだと感じます。
これからも、日々できることに一生懸命取り組んでいきたいと思います


川口印刷工業株式会社 代表取締役社長 齋藤 誠 さん(70)

1949年茨城県古河市生まれ。5歳の頃、家族で東京都北区に転居。都立北園高校を経て千葉大学工学部印刷工学科に進学。愛知県の印刷会社に就職し6年務めた後、1979年川口印刷工業東京支店に転職。1988年盛岡本社工場に転勤するとともに工場長に就任。その後、常務取締役生産本部長、専務取締役営業本部長を経て、2006年社長に就任。現在に至る

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