中村さんは家業を継ぐため盛岡農業高等学校へ進学。卒業後、農家を継ぎますが父親を早くに亡くしたこともあり、家族を支えるため農協に就職します。「40年間、共済担当で交通事故の事務処理をしてきました。事故が起きると現状把握のため必ず現場に行きました」と現場に向かう頻度は多かったと言います。「両者に和解してもらうのが大変で、お互いにどこかを妥協してもらい納得できる答えを探しました。1カ月ほどで終わることもあれば長いと1、2年かかりました。死亡事故を扱うことも多く、『お父さんを返して』や『夫を返して』という家族の一言が一番堪えました」と数々の事故現場で悲痛な声を聞いてきた中村さん。事故で悲しむ人を減らしたいと所属していた防犯隊の活動に、より一層力を入れるようになります。
入隊して数年後、みちのく国体の開催に合わせ大会警備のために3地区合同の防犯隊「盛岡市防犯隊」が結成されることに。大勢の人が集まるなか警備に尽力する防犯隊のおかげで何事もなく無事に閉会を迎えます。国体終了後も存続し活動を続けることになった盛岡市防犯隊。翌年、全日空機衝突事故が起こり、急遽現場に呼ばれます。「砂利道が人の形に凹んでいて衝撃の強さに驚きました。捜索活動で暗い林の中に入って行ったのですが、あの時の怖さは忘れられません。二度と大勢の人が亡くなるような事故は起きないでほしいと思いました」と日本中に衝撃を与えた事故はたくさんの人に深い傷跡を残しました。