第74回 旧五小路界隈(前編)

第74回 旧五小路界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 北上川・中津川・雫石川が流れる盛岡には、たくさんの橋が架けられています。このうち中津川三橋といえば、上の橋、中の橋、下の橋のことを言います。いずれも盛岡城築城に伴い架けられた橋ですが、 上中下の順番どおり下の橋はいちばん最後、1612(慶長7)年の架橋。お城での勤めを終えた諸士たちの多くは、この橋を渡り、五小路と呼ばれた士分階級の居住区へ帰っていた通勤用の橋でした。

旧五小路界隈マップ

 盛岡城の南側から搦め手(からめて)口を通り下の橋を渡ると、まず左側に中の橋から下の橋までの川沿いを通る川原小路、右側つまり南側に馬場小路、それらの小路に並行して鷹匠小路と上衆小路、その南側に隣接する大清水小路、これらを総称したのが「五小路界隈」でした。

 外堀にあたる中津川のさらに外側の諸士屋敷となれば比較的下位の武士ということになりますが、五小路に配されたのはどちらかといえば専門職集団でした。例えば川原小路には、中津川を背に文字通り背水の陣で城を守る侍たちの屋敷が川沿いに配置されていました。中津川の左岸(現:下橋中付近)の馬場小路には、馬の調教や乗馬の訓練をする「桜之馬場」があり、周辺には馬方役人の屋敷や厩などが並んでいました。鷹匠小路は藩侯お抱えの鷹匠の屋敷が並んでいた所です。

 南部家は代々、鷹狩りに熱心なお殿様が多く鷹匠は重用されていました。とりわけ28代重直公の狩猟好きはかなりのものだったと伝えられています。この重直公、江戸屋敷生まれの都会育ちだったため、大の田舎嫌い。家督を継いで盛岡に来た当初は、家臣や領民の文化・技術水準を向上させようと江戸や京都から学問、武術、砲術の師範や学者、医師などを呼び寄せ高禄で召抱えたといいます。彼らの居住区として割り当てた場所が上衆小路でした。大清水小路は、この一帯から清水が湧出していたのでその名がつけられたようですが、涼やかな印象とは違ってこの侍町の突き当たりには一時期「御会所場」 すなわち裁判所と留置所が置かれていたこともあったようです。それにしても、町名は下ノ橋町、橋は下の橋、学校は下橋中学、 読みはすべて 「しものはし」…不思議なものです。

(後編へ続く)

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