【岩魚奇談】不思議な生態、 不可解な行動

【岩魚奇談】不思議な生態、 不可解な行動

風のうわさ
風のうわさ イワテ奇談漂流

高橋政彦さん

 それが何の本だったか覚えていないのだが「雨の日、岩魚(いわな)が歩くのを見た」という記述をかつて読んで頷いた記憶がある。この一節、もちろん本当に岩魚が足を出して歩くわけではない。釣行時、私も実際に見ているのだが、岩魚は釣り上げられ、陸地に置かれると腹を下にして体を立てる。そして蛇のようにクネクネ動いて移動しようとする。陸に上げられると、もう観念して横たわるだけの他の魚と違うのだ。だから、わずかな水たまりや道路を水が流れる雨の日に、身を捩りながら「歩く」など容易いことなのである。

 実は私、気仙の大松倉沢で、岩魚にまつわる別の驚くべき光景にも遭遇している。沢の流れは目の前で1m弱の落ち込みを作り、その下で広さは八畳間ほど、深さ2mほどの淵を作っている。淵の正面に立つ私の左側は高い岩壁、右側は夏草が生い茂る開けた岸だった。釣果が期待できる大場所の前で、早速釣り針に餌を付け、落ち込みの左側、ど真ん中の激しい流れよりは少し緩い流れの中へと竿を振り込んだ。餌はぽちょんと音を立てて水面に落ち、ゆっくりと沈んでいく。

 直後であった。餌が沈んだ水面を凝視していた視界の左隅で何かが動いた。姿勢はそのままに視線を左に移す。岩壁の一つの窪みで何か動いている。妙だなと思い凝視する。こういう沢には体長10〜15㎝ほどの川鼠がいたりするので、私はおそらくそれだろうと予想した。しかし、ほどなく深い窪みの中から這い出して来たのは川鼠ではなかった。ニョロニョロと出て来たそれはポチャンと音を立てて淵に落ちた。信じられなかったが落ちて行く姿からそれが岩魚であることがわかった。さらに驚くべきことに、その岩魚らしきものは、私が沈めた餌の方に向かってスーッと移動して来るではないか。まさか。そう思った矢先、即座に竿先が水中に引き込まれた。アワセ、竿を立て、糸先を寄せると、手元に躍り込んで来たのは、紛れもなく20㎝ほどの岩魚だった。

 ブルっと寒気が走った。明らかに水中に餌が振り込まれたのを認識し、それを目指して穴から這い出し、泳ぎ寄って目標の餌を食ったのだ。もしや、意図的に釣られに来た? いやまさか。

 岩魚を針から外し、逃がしてやった後、私は奴が出て来た岩壁を確かめた。なるほど、岩魚が出て来た窪みより上にしか植物が生えていない。ということは、川が増水した時にはあの穴も水の中に没していたということだ。増水時に穴に入っていた岩魚が減水してなお取り残されていたのかもしれない。少しばかり合点がいき、恐怖心はやや遠のいた。だが岩魚の不思議な生態、不可解な行動への驚きは消えない。

 あり得そうにない光景に出会わせてくれる不思議な魅力が岩魚にはある。昼なお暗い深い渓谷で釣った岩魚の口の中が、真っ黒い髪の毛でいっぱいだったという怪奇談については、機会があればまたいつか……。

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