盛岡八幡宮から南に進むとあさ開酒造につきあたり、東に一方通行の道が延びています。この通りが旧宮古街道に続く要所、旧上小路と呼ばれたところです。
上小路は「うわこうじ」が一応正式呼称ではありますが、地元ではもっぱら「わこうじ」と発音されており、「上小路会」という、この地にご縁のある方々が親睦を深めたり勉強したりする集まりもやはり「わこうじかい」と読むのだそうです。
「〇〇小路」という地名は侍町、つまり士分級の居住区につけられる呼称で、この通りは旧宮古街道に通じる主要道です。上小路の入り口には町奉行所支配の「十人組同心」という役人たちを住まわせ「十人丁」とも呼ばれていました。その先には道の両側に城下出入り口警固のため二組60人の足軽が、組頭の屋敷を中心に配置され「上小路組」といわれていました。番所は現在の「城下盛岡町名由来記」案内板付近にあったといわれています。
「十人丁」のあたりには糸治の田屋(別荘)もありました。糸治は城下町盛岡でも屈指の豪商で商家は国の重要文化財として盛岡市中央公民館に移設復元されていますが、その別邸が上小路にありました。広大な敷地の中うっそうとした木々に囲まれて建っていた重厚で格調高いお屋敷は、惜しくも20年ほど前に解体されてしまいました。解体直前に内部を見せていただく機会がありましたが、敷地内の稱徳館(しょうとくかん)から他県に流出した貴重な馬事文物に続き、またもや盛岡市は貴重な宝物を失うのかとただただ、ため息だけが出たものです。
通りから右に曲がると、河南中学校が見えてきます。前回少し触れましたが、河南中学校の前身である不来方中学校は1947年から1952年まで盛岡城跡公園内、現在「彦御蔵」がある場所にありました。1953年に河南中学校として移転・創立し、不来方中学校はわずか6年でその歴史を閉じたわけです。
河南中学校正門前には、全国の銭湯ファンによく知られたレトロな「菊の湯」がありましたが、ボイラーの故障により2021年に閉店してしまいました。薪で沸かした柔らかいお湯と金太郎のタイル絵がよみがえってきます。
(後編へ続く)