「掘れば出そうな岩泉義経伝説」と題した先月号に連なる話である。
昭和41年に岩泉で「弁慶の手形」が発見されていた記事を紹介した後、既存の伝説が希薄なエリアと言っていい岩泉方面に、なにかしら埋もれたままの義経系伝説がないだろうかと思い立ち、ご当地の情報にもっとも詳しい資料があるであろう岩泉町立図書館まで出かけてみたのであった。
言い伝えを探し求めたいなら、やはりその土地を訪ねるべき。その先人の教えに間違いはないようだ。私は図書館の郷土コーナーで、地域の伝承をまとめた地元書籍群を漁るうち、「落人の家宝」と題された説話を得ることができた。
平泉から岩泉に落ちてきた藤原御館五郎佼衡(よしひら)は、五郎正宗の小刀、備前長光の大刀、香炉、金の七福神という4つを家宝としていた。やがて末裔は土着して三田地を姓とした。金の七福神は麻袋に入り、首にかける紐と紐の掛環が付き、一体は指の先ぐらいだったという。その家宝は今はないが行方はわかっているそうだ。これは下岩泉の植村ユキさんから昭和50年に聞き取りした話とのこと。
はて、藤原御館五郎佼衡とは誰だろうか。私はこの名を初めて聞いた。御館は領主や主君を表す敬称だろうから、五郎は御館になり得る由緒ある家系の五男ということになるだろう。
そのように五郎が五男を指す呼び名とすれば、秀衡の五男には通衡(みちひら)がいる。しかし明らかに違った名で伝わる逸話だけに同一人物かといえば疑問だ。しかも通衡自体、実在したか謎となっている人物でもある。
また、奥州藤原一族の中で、五郎と呼ばれる人物といえば、初代清衡の四男・清綱(つまり秀衡の従兄弟)の子であり、現在の紫波郡日詰に居を構え、樋爪氏を名乗った樋爪五郎季衡(すえひら)がいる。だがこちらも名が明らかに違っているため、大きな謎が残る。
謎は深いほど面白い。その深みにはまり、わくわくしながらさらに岩泉町内を調べていく私は、ひじょうに興味深い話と出会った。藤原御館五郎佼衡なる人物に繋がる伝承である。
それは名勝・龍泉洞の前、天然水飲み場の近くにある「五郎兵衛石」と呼ばれる奇岩とともにあった。方角と時刻を表すというこの石の名は、これを建立した明治期の三田地五郎兵衛という人物に由来するのだそうだが、これこそが平泉の藤原御館五郎佼衡の末裔とされる人物を指すというのだ。
全国的にほとんど岩手にしかなく、中でも岩泉町が県内ダントツに多い三田地姓は、岩泉の鍛冶屋が「御太刀」を三田地と当て字にして伝えたという説もあるようだが、やはり私としては「御館」の表記を転訛させて密かに使ったものと考えたい。やはり、藤原一族の御館を匂わせる名には秘めねばならない理由を纏っている気がしてならないのである。義経系の伝説を秘匿して眠る岩泉、その調査を継続したい。