『イーハトーボの劇列車』などの作品で知られる井上 ひさしは山形県の出身ですが、一関市で過ごしたこと がありました。ひさしは昭和 24 (1949)年4月末、一家で一関市にやってきました。当時の一関市は前年、前々年と台風による大水害にあい、堤防決壊によって大きな被害を出していました。父親はすでに亡くなり、母マスが生活を支えており、 大林組の下請けとして「井上組」の飯場を開き、大水害後の堤防工事に従事したのです。
一家が移り住んだのはひさしが 14 歳の頃のこと。一 関中学校(一関第一高校の前身)第2学年に編入しま した。生活は楽ではなかったようですが、良き先生や学友に恵まれた楽しい日々を送ったようです。映画館 に入り浸り、映画の切符のもぎりをすることもありました。学校ではクラスで出していた文芸誌に詩を寄せたりして、文学への志向が育まれました。
しかし兄の病気などで、一家は離散を余儀なくされ、ひさしは弟と共に仙台の児童養護施設・光ヶ丘天使園に入園することに。一関市での日々は5カ月ほどで打ち切られました。
一関市での波乱万丈に過ごした体験が作家として大成するいしずえを築いた、と言ってよいのかもしれま せん。
「一関・文学の蔵」にある井上ひさしコーナー