第67回 旧上田組町界隈(前編)

第67回 旧上田組町界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 盛岡藩では、藩政時代に城下から外部に通じる街道沿いに「組町(くみちょう)」と呼ばれる通りがあり、下級武士の足軽組が配置され最前線の守りについていました。組町が付くのは他に旧仙北組町、旧神子田組町などがありますが、今回は奥州街道沿いの盛岡の北の玄関口を守る「旧上田組町」を散歩してみましょう。

 旧上田組町は、城下旧四ツ家町の田中地蔵尊のところにあった「四ツ家惣門」を出て旧赤川を渡ったところから、まっすぐ北へ向かう長い一本道に沿った侍町です。街の規模としては11町余りで、 次の関門の「上田惣門」まで約1.2㎞の道に、江戸時代前期には5人の組頭に各組30人、総勢150人の足軽が街道を挟んで配置されていました。

 この頃の足軽屋敷はほとんど同じような型をした家が立ち並び、かやぶき屋根にだいたい二間+台所付き。今風に言うなら「2Kの社宅」といったところで、「小郎党家(ころどや)」と呼ばれていました。屋敷と屋敷の境はヒバの生垣で仕切られ、どの屋敷の庭にも甘酸っぱい実のなる「ぐみの木」が植えられていたことから「上田ぐみ町」ともあだ名されていたそうです。かやぶき屋根の小ぶりな建物とはいえ、長い1本道の街道の左右にそれぞれ80軒前後の侍屋敷がずらりと並んでいる様は、一景を成していたことでしょう。また、武士の中でもっとも身分の低かった足軽たちが内職として作っていた草履表は、江戸で「南部表」と称され盛岡藩の特産物にもなっていたという話もあります。これらの屋敷は1965(昭和40)年頃まで数軒その姿を残していましたが、現在は全て建てかえられ、商店や住宅が並んでいます。

 上田組町を北へ進み、現在のNHK付近、国道4号線と交わる場所には、他からの出入りをチェックするため、城下の北の関門として周囲に土手を築き、柵を桝形状に囲った上田惣門が設けられていました。この桝形の外側には数軒の茶屋があり、上田茶屋と呼ばれて見送りや出迎えに利用されていたそうです。二十年余り前までこの地に「茶屋の湯」という銭湯がありました。アパート住まいの元岩大生など利用した方も多かったことでしょう。

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