第61回 肴町界隈(前編)

第61回 肴町界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 盛岡駅を降りて開運橋を渡り、大通を抜け、さらに中の橋を渡った先に現れるのが、「元祖 盛岡城下町」とも言える肴町界隈。盛岡の昔と今を楽しめるところです。

肴町マップ

 盛岡市民にとって肴町といえば「ホットライン肴町」のアーケード街を連想すると思いますが、この通りだけが肴町だったのは「旧肴町」時代のことです。現在の範囲は、旧呉服町、旧六日町、旧十三日町、旧馬町、旧餌差小路、旧川原小路の大部分とアーケード内の「みかわや さかな館」から南側で、北日本銀行肴町支店から北側は、中ノ橋通一丁目に分けられたのです。

「肴町」という町名が出てくる最も古い史料は、1644(寛永21)年の南部藩歴代家老席日誌「雑書」だそうですから、28代重直公の時代にはすでに町立てされていたと思われます。町名の由来は、当初この町にお城御用達の魚商人がいたためと伝えられますが、「魚町」ではなく「肴町」としたところが粋ですね。

 藩政時代、旧六日町、旧呉服町に豪商や旅館が軒を連ね、諸国の旅人や武士が往来する奥州街道の本通りであるのに対し、肴町はいわば裏通り。地元や近郊の人たちが気軽に買い物ができる庶民の町でした。大きな店はなかったものの多様な店が並び、賑わいは街道筋以上だったようです。さらに29代重信公の時代、八幡宮と肴町を結ぶ門前町「八幡町」が町割されてからは、河南地区の中心商店街としての位置づけを確実にしていきました。明治になると、それまで一般人は渡れなかった中の橋が、内丸の官庁街と肴町を最短で結ぶコースとして自由に往来できるようになり、賑わいはさらに増すことになります。

 しかし、その肴町にも試練の時がやってきます。1884(明治17)年に起きた有名な「河南大火」です。下の橋監獄より出火し、河南地区を焼き尽くしたこの大火で、家屋1,432軒、寺社24ケ寺、土蔵56棟、学校4校が焼失しました。このとき没落した老舗があった一方で、焼け跡から復興した老舗や近隣で焼き出され新天地を求めて肴町に開店した商人も加わり、肴町はむしろ最新の商店街として勃興していったのです。

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