村里さんは新潟県魚沼市の出身。川の近くに住んでいたので釣りをしたり、石だらけの川岸を難なく駆け回っていた活発な子どもだったそう。4歳からスキー板を履き、中学2年生でスキー競技を始め数々の大会に出場、結果を残します。大学進学のため上京し卒業後はスポーツ関係の会社に就職。事業の一環で雫石のスキースクールの指導を任され結婚と同時に岩手にやってきました。「子どもたちに教えるからには自分のスキー技術もレベルアップしなくては示しがつかない。目標があれば50しか出せない力も100の力を出せるはず」と教え子たちに自らの技術と競技に臨む姿勢を見て学んでもらうため国体へ出場することに。仕事と育児をこなしながらトレーニングに励み、出産後初めて出場した国体で4位という結果に子どもたちと喜んだと言います。その後も数々の大会に出場し「ママ友たちが手作りの冠を持って応援に来てくれて、気が早いなと思いましたが自分の頑張りが彼女たちを元気付けているのだと感じました。45歳で出場したイタリアでの世界マスターズでは3位に入賞し強豪国の選手が握手しに来てくれたときは嬉しくて号泣しました。帰国後に祝賀会をしてもらったり取材を受けたり自分のしてきた努力で周りがこんなに喜んでくれるなんてとさらに感動した」と笑顔で振り返ります。
指導をしながら選手としても活動を続けていた平成23年、東日本大震災が襲います。「今まで頂いたご恩を返したい」とスポーツには人を笑顔にする力があると実感していた村里さんは"いーはとーぶスポーツクラブ"を設立。被災地で人気のスポーツをみんなで楽しみ交流を深める活動を始め、笑顔の輪が広がっていったと言います。次第に県内各地から幅広い世代の会員が集まり全国大会に参加できるほど活発なクラブになっていきました。