前号に続き、旧紙町・鍛冶町界隈を行ったり来たり。
近江商人たちの起業の拠点として栄えた「紙町」は、上方からきた紙商人がいたことから名づけられた町名と言われています。上の橋が架けられて4年後の1613(慶長18)年には早くも近江商人が盛岡へやってきて、橋の近くに店を出したとされており、以来盛岡にたどり着いた近江商人たちは、まず紙町に立ち寄ってわらじを脱ぎ、情報交換をした後、起業を目指し城下や領内に展開していきました。紙町は橋の両側だけの城下最小の町割でしたが、幕末までには井筒屋弥兵衛(井弥)、大塚屋宗兵衛(駒井)など屈指の豪商老舗が軒をつらね、民力は相当高かったようです。
上の橋の東側にある建物には、今も古書店が店を構えています。以前はその隣に千代紙店もあったので、いかにも紙町らしさを醸し出していたものでした。この建物は、大正期に建てられたハイカラな佇まいですが、上の橋の雰囲気とよくマッチしています。
旧井弥商店の向い側は旧鍛冶町でした。そこに土蔵造り風の長岡アパートがあり、一階にはミニ店舗が並んでいます。現在の建物が建てられたのは1984(昭和59)年で、さほど古くはありませんが、この街の歴史性に配慮した意匠を取り入れたことが評価され、都市景観建築賞を受賞しています。この建物の裏手には市指定の景観重要樹木「長岡氏のシンジュとキヅタ」の巨木があります。
もう一度、上の橋を西に向かって渡りましょう。
左手の路上には、やはり景観重要樹木として保存指定されているイチョウの大木が目に入ってきます。県立中央病院が1987(昭和62)年に今の上田に移転する前は、この「上の橋緑地」と呼ばれている場所にあり、この大イチョウが病気と闘う患者さんたちを見守り続けたのでした。
他方、右側のバス専用駐車場の所には、かつて丸竹という老舗の料亭があり、その並びには葬儀屋さんや果物屋さんがあったのを憶えています。果物屋はわかりますが、葬儀屋や料亭が病院のまん前にあったというのは、今考えればどうにも妙な取り合わせですね。
(後編へ続く)