文化と思いを紡ぐ

文化と思いを紡ぐ

インタビュー
スピンクラフト岩泉 代表 工藤 厚子さん
スピンクラフト岩泉 代表
工藤 厚子さん
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● 毛糸の文化がきっかけに

 黄色やピンク、上品な紫など、色とりどりの毛糸。岩泉町の草木で染められ、地元の紡ぎ手たちによって丁寧に紡がれた丈夫で暖かな毛糸です。自然豊かなこの地で毛糸を作り続けるスピンクラフト岩泉。代表の工藤厚子さんは活動を始めて約40年、夢中になって毛糸を紡いできたと話します。

 工藤さんが毛糸作りを始めたのは55歳の時。母親を看取り、自分の楽しみを見つけたいと思っていたときに役場から毛糸作りの講習会の知らせが届いたのがきっかけだったそう。一村一品運動という地域の特産品を作る町おこしがあり、昔から伝わる毛糸を岩泉の特産品にしようと開催された講習会でした。「東京農工大学の先生が『近くの尋常小学校で羊を飼育して毛糸を紡ぐ授業の記録はあるか』と尋ねてきました。自給自足の時代、この地域で羊を飼っていた家が多く、毛糸にして防寒着を作る文化があることを知りました。今でも毛糸を紡げる人がいるとわかったので毛糸を特産品にすることにしたそうです」とここから農工大学の先生の指導で毛糸作りが始まります。「私は糸が紡げなかったので染めをやってと言われました。宵待草という草で羊毛を染めたのですが植物でこんな色に染まるんだと驚きました。その羊毛がするすると糸になっていくのを見てさらにびっくりしました」と感動し、支え合える仲間もできて楽しく続けられたと言います。

● 好きなことを続けられる幸せ

 その後も定期的に指導に来てくれた先生と共に毛糸作りを続けた工藤さんたち。みんなが目を輝かせながら作業するのを見て工藤さんも糸紡ぎに挑戦することに。しかし最初はうまくできなかったと言います。「これならいいだろうと思っても先生にこんな糸ではだめと言われ、がっかりしました。大変だと口にすればやめろと言われると思ったので絶対に自分のものにすると決心しました」と仲間に支えてもらいながらたくさんのことを学び、誰よりも夢中になっていたと笑顔で振り返ります。しかし、次第に活動を続けるのが難しいと断念する人が出てくるように。「費用や時間がかかるのでどうしても生活に影響がありました。続けるために健康第一、家族第一をモットーに自分たちができる量だけこなすようにしました。そうしたら渋々送り出してくれていた家族も応援してくれるようになりました」と周囲からの理解も得られたからこそみんなで続けられたと言います。

 活動を始めた翌年、皆さんのもとに川徳での展示会の話が舞い込みます。きちんと自分たちの毛糸として出すためにグループ名を「スピンクラフト岩泉」と決め、その名前を毛糸につけて持っていきました。「開店前から川徳の前に並んでいる人たちがいて、あとから自分たちの毛糸を目当てに来た人たちだったと聞きました」。当時は既製品の毛糸が主流になってきた時代で、自分たちの毛糸は見向きもされないと思っていたので驚いたそう。「手作りで世界にひとつしかない毛糸という付加価値がお客さんに気に入ってもらえたと思います。同じ植物でも季節や環境、場所で色が違ってきます。時間が経つと色がうつろう(変化する)ので、ずっと愛用してもらえるよう紡いできました。今でも新しい毛糸が欲しいという方がいて嬉しいです」と工藤さん。手紙で交流を続けているお客さんもいて、編んでくれた作品の写真が届くとすてきな毛糸だなと自画自賛して思わずにやけてしまうと話してくれました。

 今でも毛糸作りをしている工藤さん。数年前からは若い人たちに毛糸の作り方を教えて引き継いでいるそう。「見知らぬ所に嫁いできてしまったと思ったけど周りの人たちに助けてもらいました。今はここで好きなことを続けながら年を重ねられてなにより幸せだと思っています。今度はそれを若い人たちに伝えていきたいです」と工藤さん。家族や仲間、周囲への感謝が込められた毛糸は次世代へと紡がれていきます。

プロフィール

1931年岩泉町小本出身。24歳の時、結婚を機に岩泉町袰綿に移り住み家業を手伝いながら、家事や育児に奮闘する。55歳の時に町おこしのため毛糸作りを始め、数年後に「スピンクラフト岩泉」の代表となり現在も活動を続ける。平成4年には岩手県の産業まつり特産品コンクールで金賞を収める。※写真のセーターは活動を始めた当初に染めた毛糸で編まれたもの

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