すべては自己投資

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インタビュー
シニアズ2021年4月号【すべては自己投資】岩手県盛岡広域振興局 経営企画部 産業振興室 IT連携コーディネーター博士(工学) 佐藤 清忠 さん
岩手県盛岡広域振興局 経営企画部 産業振興室 IT連携コーディネーター博士(工学)
佐藤 清忠 さん
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● テレビゲーム誕生のきっかけを作った人物

子どもだけではなく大人も熱中し、ついつい時間を忘れて遊んでしまうテレビゲーム。時代と共に進化し、今ではインターネット回線を通して会ったことがない人たちと対戦したり、離れた場所でも仲間と一緒に遊ぶこともできるようになりました。そんなテレビゲーム誕生のきっかけを、日本で初めて作った人物が岩手にいるのをご存知でしょうか。家庭用テレビゲーム機が普及し始める少し前、岩手大学工学部の技術職員だった佐藤清忠さんの研究室に、ミニコンピューターがやって来たのが始まりでした。

佐藤さんは黒沢尻工業高校電気科に通い、電気・電子技術を学んでいました。幼いときから農業を営む両親のもとで農作業を手伝い、4人きょうだいの長男だったので力仕事をよく任されていました。家族から“根っこ掘り”と呼ばれ、何故と思ったら答えを探して聞き回る子どもだったと話します。疑問に思ったことを納得できるまで追求する性格は変わることなく、学校の授業だけでは自分が満足できる答えが得られず好奇心が満たされなかったそう。「学校帰りに産廃業者の会社に寄りパン代としてもらったお小遣いをすべて真空管や電線などを買うために使い、独学で無線機や機械作りに没頭した。技術は自分から進んで学び習得するもの、そのための費用は惜しんではいけないと実感した」と高校生ながら自己投資の大切さを知ったと言います。

卒業が近くなると進路に迷っていた佐藤さんの元に、岩手大学電子工学科で技術職員を募集しているという話が舞い込みます。もっと新しいことができるのではと期待に胸が膨らみ、岩手大学で働くことを決めます。

●希望を秘めたミニコンピューター

電子工学科の研究室に入った佐藤さんは、大学生に実験の指導をしたり研究発表の手伝いもこなしながら、他の研究室や大学から引き受けたシステム開発に尽力します。子どものころの力仕事で培った忍耐力が遺憾なく発揮され、周りが心配になるくらい作業に没頭。幅広く技術を身につけたいと専門書を買い集め、研究室は佐藤さんの本や部品でいっぱいになりました。

働き始めて1年ほど経ったころ、実験の機材として「HITAC10」というミニコンピューターが導入され、上司の指示で管理を任されるように。「機械が大好きだったから目を輝かせながらHITAC10の使い方を覚えた、それを学生指導用に工夫してマニュアルを書いた」と楽しそうに話します。

導入されて数カ月後、多忙な毎日を過ごしていた佐藤さん。ちょっとした息抜きにとHITAC100の蓋を開け、中の基盤を取り出し電線を取り付け、別の機械とつなげられるように改造してしまいます。「使い方を覚えたときに中の構造も把握していたので、そのようなこともできるのではと思っていた」と予想の範囲内だったそう。当時の金額で100万円、現在だと数千万円もする機械だったため批判的な意見もありましたが、この改造をきっかけにさまざまな可能性が生まれるようになりました。

佐藤さんが書いたHITAC10のマニュアル
佐藤さんが書いたHITAC10のマニュアル

佐藤さんが書いたHITAC10のマニュアル。佐藤さんの実体験を元に学生向けにアレンジした操作手順などが記載されている

●HITAC10の可能性の先にあるもの

改造したHITAC10をどうしようか考えていたとき、XYレコーダー(X軸とY軸の2つに電圧信号を送り波形を記録する装置)につなぐことを思いつきます。さらにコントローラーと連動させボタンを押すと、2つの軸を自在に動かせる仕組みを開発。UFOキャッチャーのアームのように自分で2つの軸を操作できるように。この技術を応用し「電子福笑いゲーム」を作り上げました。迷路状のコースにある障害物を避けなが各所にある顔のパーツを取ったら元の場所に戻り、ボタンを押してパーツを落とす。すべてのパーツを集めて福笑いを完成させるという誰でも楽しく遊べる機械でした。大学祭で展示すると今まで見たことのない機械に来ていた子どもたちは大興奮。大人も興味津々で行列ができるほど人が集まり大好評でした。

電子福笑いの成功を機に今度はブラウン管オシロスコープ(波形を管面に表示する装置)とHITAC10をつないでみることに。「当時はブラウン管の管面に映し出すという発想がそもそもなかったが、映せたら面白いことができるのではとやってみることにした」と佐藤さんの発想力は尽きません。つないでみるとHITAC100からの信号をブラウン管の管面に出力することに成功、全国的にも例がなく日本初の装置だったそう。興味を持った学生たちがさらに発展させ卒業後、就職した電機メーカーでも技術開発を進めていき、徐々に全国でもゲーム開発が始まるようになり今ではお馴染みのテレビゲームが誕生しました。「ゲームを作ろうと思ったわけではなく、ただの息抜きのつもりが段々とのめり込み、こうしたら面白くなそう、こうなればみんな驚くのではとアイデアが湧いてきた。思いつくと嬉しくて、ますます意欲的になってしまい休むのを忘れてしまいました」と照れながら話してくれました。

 

当時の貴重な機械
当時の貴重な機械

当時の貴重な機械。機械の構造や可能なことを把握できれば、機能を応用したアイデアが次々と浮かんできたそう

●発想力の根源を作る

今でも佐藤さんの元にはAI(人工知能)の相談などさまざまな依頼が寄せられ、できる限り応えたいと知らない分野でも一から勉強し引き受けていると言います。「高校時代に自己投資の大切さを知ってから何かを学ぶときには、実践的なものには惜しまず投資しなくてはいけないと思った。初めて自転車に乗る子どもに高価な自転車を買い与えるようなもので、乗れるまで痛い思いもするけれど乗れるようになれば性能の良い自転車なら行きたいところがどんどん増える。そういうものだと思いながら自己投資を続けたら次々にアイデアが生まれてくるようになった」とたくさんの人の悩みを自己投資から得た幅広い発想力で解決してきた佐藤さん。

「どんな仕事も仕事だと思って構えず、初めて乗る自転車のように楽しみながらやってきた。最初は大変だが体験し続けていくと面白さがわかり、楽しく思えて自由な発想ができるのだと思った。依頼があると次はどんなことができるだろうと、わくわくしながら話を聞いている」と笑顔を見せます。佐藤さんの根強い探究心は、これからもアップデートし続けるでしょう。

プロフィール

1950年3月6日生まれ。花巻市栃内出身。黒沢尻工業高校 電気科を卒業後、岩手大学 工学部 電子工学科の技術職員として20年勤める。一関工業高等専門学校へ異動し地域課題を解決するための事業に取り組む。現在は盛岡広域振興局でIT連携コーディネーターとして地域とITを結ぶ活動を行っている。また素粒子物理学などを独学で学び始め同部でILC解説員も兼任している。

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