●小さな時から描いていた騎手への道
未だ落ち着かないコロナ禍において昨年、単年度黑字を達成した岩手競馬。無観客や入場規制の掛かっていなかで、スマホで馬券を購入する仕組みが好評と昨今で主流になりました。そんな岩手競馬を数十年間に渡って騎手、調教師として支えているのが菅原勲さん(57)です。菅原さんは叔父さんが水沢競馬の調教師、父が厩務員という環境で二人兄妹の兄として生まれました。小学校の頃はブロ野球選手に憧れた野球少年だったという菅原さんも、将来の夢は幼い頃から騎手だったと話します。「野球は好きではあったけど人生をかけるほどじゃなかった。叔父や父に物心ついた時から騎手になるんだ
と言われて育ってきた。実競馬場に行ってレースを見てはすごいなと思っていたし、当たり前にそのつもりでいましたよね」と菅原さん。中学卒業を機に那須塩原にある騎手学校を目指し、高一の秋に合格。夢への一歩を歩み始めます。
●念願の騎手人生、運命の馬との出会い
当時の騎手学校は20人枠に100人以上が望む難関校。同級生は競馬場で働いた経験者や乗馬訓練をしてきた人ばかり。そんななかで、小さい頃からの夢に向けて日夜頑張り、2年後には念願の騎手デビューを果たす程に。しかし、夢を叶えた喜びと同じくらいに騎手としてこの先やって行けるかがとにかく不安だったといいます。そんな菅原さんの初勝利の記憶は「とにかく無我夢中だった。勝った時はとにかくスタートからすぐ逃げたのだけ覚えているな」と笑います。
その後、一番思い出深いという騎手2年目での三県交流(岩手・山形・新潟)東北ダービーという重賞を新潟で勝利します。「馬も人も環境が変わると調整が大変。だけどその環境で勝てたのは、騎手としてやって行けるぞという自信になった」。その勢いでその年、新人騎手表彰を受賞。そこからも数々の重賞勝利など騎手としての快進撃が続き、デビューから10年でリーディングを獲得。騎手としてキャリアハイの時に生涯44戦3勝と競馬史に名を刻む『トウケイニセイ』という馬と出会います。
「エビ(屈腱炎)と呼ばれ致命的な怪我を通りながらも、人より頭が賢いくらいでとても安心して乗れたね。いろんなレース展開にも馬が慌てず、逆にレースを教えてもらえた気がする。勝って褒められることを分かっていて勝利時の撮影にもポーズを取るよう馬だったよ」この出会いは、菅原さんの騎手としての高みを目指すきっかけになったといいます。
●掴んだ夢とこれから掴みたい夢
そして1999年、夢の頂である中央競馬交流G1競走「フェブラリーステークス」でメイセイオペラに騎乗するチャンスを得ます。舞台は府中競馬場(東京競馬場)。いつかこのレースに出たいと、毎年現地で観戦するほど思い入れは強かったと言います。「勝負事はその日の流れがある。その日は気分も乗っていたし、馬の調子もすごく良かった。自分が緊張していないか出走中にコース上から客席を確認したらよく見えて、大丈夫だと楽しく臨めました」。
名だたるサラブレットと中央のスター騎手の馬群の中、落ち着いてスーッと抜けたメイセイオペラは府中競馬場10万人を超える競馬ファンの前で勝利を飾ります。「府中競馬場の10万人が『イサオコール』で自分の名前を呼んでくれた。最高の時間でしたね」。誰もが成し得なかった夢を叶えた菅原さんは、その後もトウホウエンペラーで地方G1の権威、東京大賞典に勝利するなど遠征先でのビッグレースに次々勝利、数々の騎手賞も獲得するまでになりました。
華やかなキャリアの裏には責任感が常に自分の支えだったといいます。「毎週、レースのために馬主さん始め、調教師さん、厩務員さんが馬を支えている。決して騎手だけではなくチームとしてレースへの思いがある。レース前は3kg~5kgの減量があってきつい時も
あったけどその責任を一番に背負う気持ちで頑張ってきましたね」。
現在は騎手を引退されて9年、調教師として次なる名馬育成に余念がありません。「自分が騎手時代に中央の重賞を勝って自信になったように、次は自分の育てた馬が中央で勝つことが夢ですよね」。ひとつのことでも情熱を持って失敗を繰り返しても挫けず続けていくことが夢を叶える秘訣という菅原さん。
菅原勲の夢はこれからも出会う馬たちと共に追い続けます。