石川啄木や宮沢賢治、新渡戸稲造などの歴史的な偉人を輩出し、平泉、橋野鉄鉱山、御所野遺跡の世界文化遺産を保有する岩手県。現在は約120万人が暮らす県ですが、国内では二番目の面積を持ち、県土のおよそ8割は森林。北上川をはじめとした、良質な水源もあり、豊かな自然に恵まれています。そんな自然豊かな岩手県の知事を4期にわたって務めているのが、現職の達増拓也さんです。
今回、情報紙シニアズでは、そんな達増知事の生い立ちに遡り、幼少期から青年期、大学時代、外務省時代、なぜ知事になったのか、そして、現在までどのように考え、行動してきたのかを取材してきました。社会経済情勢が著しく変化するなか、将来を見据えた地域課題への対応を迫られる昨今。達増知事が掲げる「希望郷いわて」を目指し行動していくための計画、「いわて県民計画」はどのような思いで策定されたのでしょうか。
● 大人に囲まれて育った子ども時代
盛岡市肴町と南大通が接する、かつては「餌差小路」と呼ばれていたエリアで、炭屋を営んでいたという達増家。小学校に入学するまで、その店舗兼住宅で両親ときょうだい、曽祖父母、祖父母、大叔父、(母方の)叔母という大世帯で暮らしていた達増拓也知事は、幼少期をこう振り返ります。
「周りに大人がたくさんいる環境で育ちました。幼稚園の頃から店番をしていたのでお客さんとやりとりすることが多く、当時中高生だった叔母に連れられ、貸本屋に行っては『サイボーグ009』『タイガーマスク』などのマンガも、好きで読んでいました」。そのせいか、周りに比べて読み書きを覚えたり、しゃべるのも得意だったとか。
小学校では児童会長、中学校でも生徒会長を務めるなど、子ども時代からリーダーを任されることが多かった達増知事。中学時代には「よりよい生徒会を組織するためにはどうしたらいいか」という思いから読んだ生徒会活動の本をきっかけに、組織運営に興味を持ち、日本の国家運営、アメリカの大統領制度など、どんどんと他国の政治の仕組みにも興味を持つようになります。さらに、この頃世界的にヒットしたアメリカ映画『スター・ウォーズ』に出合い、たちまち虜に。作品を通じて英語の面白さを知り、アメリカ社会への関心に拍車がかかったとか。
この頃からアメリカに行ってみたいと考えるようになりましたが、当時は、海外旅行もまだ当たり前じゃなかった時代。岩手の中学生にとってはなおさら、アメリカは遠い国でした。そんな時、盛岡一高で海外派遣事業が始まり、選ばれた生徒はアメリカへ研修旅行ができるという話が舞い込みます。「これはアメリカに行けるかもしれない」と思った達増知事。盛岡一高に進学することを即座に決め、その通り進学。高校2年の春には希望を叶え、海外派遣事業に参加しました。海外派遣事業ではアメリカに4週間滞在し、ホームステイしながら現地の学校に通ったり、ニューヨークやワシントンD ・C・を視察したとか。
「滞在中ずっと楽しくて『海外の環境が向いている』と思いました。言葉が通じないなりにいろいろな方法でコミュニケーションを取りましたが、それもまったく苦じゃなかったのを覚えています」と、当時を懐かしそうに振り返る達増知事。
「滞在中に何より感銘を受けたのが、アメリカという国は、何事においても徹底しているというところでした。例えば政治の分野だと、ワシントンD・C・に、リンカーンを称える記念堂があるんですが、それが神殿かと思うくらい立派なんです。ホワイトハウスや国会議事堂もすごく威厳がある建物だし。そんなところにも政治や民主主義に対する真剣さを感じ、将来ここで働いてみたい、と思わせるものがそこにはありました」。こうした滞在先での経験は今後の人生に影響を与えます。
●国際的な仕事に憧れ東大法学部へ
アメリカから帰国後「国際的な仕事に就きたい」という思いを確かにした達増知事。アメリカ大統領の補佐官を務めた国際政治学者・キッシンジャーやブレジンスキーに憧れ「国際政治を学ぼう」と、東大法学部への進学を決意します。
「他の大学では、法学部と経済学部は全く別のものとして位置付けられている場合が多いのですが、東大は法学部にも政治経済の授業があるんです。興味のある政治経済と、社会に出て役立つ法律のどちらも学べるのがいいなと。また東大は有名な教授がたくさんいるので、一般教養課程でさまざまな授業を受講できるというのも魅力でした」
しかし、志望校を決めたのは高校3年生の1学期。受けた模試はほとんどがC判定という結果。無謀だという先生もいましたが「一度B判定を取ったことがあったので、可能性はまだある、と思った」と達増知事。過去問を徹底的にこなして傾向と対策をつかみ、見事、現役合格を果たします。
こうして学生生活をスタートさせた知事ですが、その4年間は、決して順風満帆ではありませんでした。
「ゼミやサークルで物事を決めたり話し合いをするとき、中心となるのはだいたい、東京の有名進学校出身者。私のような田舎者は話すスピードが遅く、訛りもあったせいか、発言してもなかなか耳を傾けてもらえませんでした」
そんな状況が一変したのは、大学3年生のとき。外務省主催の論文・討論コンクールで、最高賞である外務大臣賞を受賞。これをきっかけに周りから一目置かれ「その時から、みんなが注目してくれるようになり、実績をつくることの大切さを実感しました」と話します。コンクールで得たのは実績だけではありませんでした。なんと、賞品としてASEANの視察ツアーに参加できることに。このツアーが、その後の人生を方向づける転機になったと振り返ります。
「ツアーで各国を訪れたのですが、その国に駐在している外務省職員の相手国の文化や人々をリスペクトする姿勢、国際情勢など状況の変化に対応する姿に感銘を受け、自分もこの魅力的な仕事がしたい、と考えるようになりました」
その思いはカタチになり、1988年、達増知事は大学を卒業し外務省に入省。社会人としての第一歩を踏み出します。
●広い視野を身につけた外務省1年目
期待の外務省に入省した達増知事。1年目は経済局総務参事官室に所属します。語学などの研修を受けながら、コピーやお茶出し、他部署へのお使いなど、先輩職員のサポートに奔走。「雑務といえばそうですが、気軽に他部署に顔を出せる新米の特権とも思っていました」と達増知事。
「あちこち出入りしているうちに、それぞれの部署の役割や、今誰がどんな仕事をしているかなど、組織全体の様子が見えるようになりました。ちなみに当時、1年目の職員はタクシー券の管理も仕事のひとつだったのですが、枚数に限りがあり、いかに無駄遣いせず支給するかは裁量次第。最初は言われた通りの枚数を渡していても、組織がわかってくると『相乗りでもいけますよね』と交渉できるようになるわけです。そうした新人なりの『ボトムの視点』も、組織には必要だと実感しましたね」
その一方で知事は『トップの視点』を意識する機会にも恵まれたといいます。
「所属が主要国首脳会議(G7サミット)の担当部署だったこともあり、総理大臣が発言するためのメモの作成を任されました。トップに立つ人の視点に思いをめぐらせ、コメントの原案を考えたり清書したりすることは、自分の視野を広げるいい経験でもありました」と振り返ります。
●アメリカへの留学とシンガポール赴任
入省2年目の1989年、達増知事はアメリカに渡り「ジョンズ・ホプキンス大学 ポール・H・ニッツェ高等国際関係大学院(SAIS)」に留学。2年にわたり、国際法や国際機関、紛争解決などを学びました。
「元々、外交研究所として始まった機関でもあり、外交官魂の本質をたくさん学んだ2年間でした。高校時代に憧れていた、カーター大統領の安全保障担当補佐官・ブレジンスキー教授のゼミに入ったり、新しい講座の開設を手伝ったりしました」
そのなかでも、特に印象に残っているのが「コンフリクトマネジメント(紛争管理)」だったといいます。「交渉は、勝ち負けを決めるのではなく、お互いの利益をプラスにする前提で行うもの」「クライシス(危機)は、危=あぶないという意味がある一方、改革の機=チャンスでもある」など、考え方の幅が広がったと達増知事は話します。
「例えば、コロナ危機の今だからこそ、これまでなかなか実現しなかったリモートワークやICTの導入が進んだり、移住定住の希望者者を増やせるかもしれない。ネガティブな要素の裏にあるチャンスにも目を向けようという視点は、知事になった今も、自分の支えになっています」
1991年、達増知事は2年間の留学を終え、今度はシンガポール大使館の書記官として赴任します。
「シンガポールは治安がよかったこともあり、希望して行きました。住む場所も比較的自由に決めることができたので、チャイナタウンの近くに部屋を借りて、休みの日には現地の伝統文化を体験しに、いろんなところに出かけましたね」
仕事では、大使のお供で相手国の上級大臣を訪問したり、大使の挨拶の原稿を書いたり。また、地元の新聞を読み、日本についてどう書かれているかもチェックしていたそう。
「普段は日本に対して友好的なシンガポールでも、いつどう状況が変わるかわかりません。特に、私が赴任した年は太平洋戦争開戦から 50年という節目だったので、現地メディアがどんな報道をしているかなど注視しながら、穏便に過ぎるよう腐心しました」
帰国後は、1993年東京サミット事務局に配属。後に、総合政策局科学技術協力室総務班長、大臣官房総務課課長補佐などを務めた達増知事。外務省での仕事は、とてもやりがいを持てたと振り返ります。
●政治家に転身そして岩手県知事へ
1996年、達増知事は外務省を退職。衆議院選挙に立候補します。
「岩手県副知事も務められた高橋令則元参議院議員(故人)から声をかけられたこと、また、しばらく離れていたふるさと岩手に貢献したいという気持ちもありました」と、当時の思いを振り返る知事。外務省での仕事にやりがいを感じていたものの「外交は政府の仕事の一部分。貿易交渉ひとつとっても、外務省だけで進められることではなく、政治行政全体で取り組まなければ良い方向に進まない。そうした思いも、決意する動機のひとつでした」と話します。
その後、無事当選を果たした達増知事。多くの政策プロジェクトチームに参加し、ブレア首相の英国政治視察なども企画。その学びを国会に反映します。「例えば答弁も、以前は官僚が行っていましたが、政治家が自らの言葉で答弁するように改革しました。この頃始まった党首討論も、イギリス議会のスタイルを取り入れたものです」と知事。その後も4期連続で当選し、主要政策の立案に携わるなど尽力を続けます。
そして2007年4月、岩手県知事に。その決断の背景には「二人の達増拓也がいた」と、振り返ります。
「一人は、民主党(当時)の県連代表を務める私です。民主党として推すことができる知事を出そう、というなかで、有権者の方々からぜひという声をいただき、思い切って立候補しようと思いました。もう一人は、個人・私人としての私です。大学も就職も東京、海外駐在もして、ふるさとを離れ過ぎた、という気持ちがどこかにありました。また、議員になって岩手に関わるようになり、地方経済の悪化や人口流出などの課題に直面したとき、東京への一極集中を、岩手という『現場』に立って是正したい、という思いが強くなりました」
「危機を希望に変える」。これは、達増知事が就任時から訴えてきたスローガン。アメリカ留学時代に学んだ「クライシス(危機)」に対する捉え方が、ここにも生かされています。
「外務省時代や国会議員時代に身につけた知識や経験は、知事の仕事をする上でも支えになっています。人脈もそう。東日本大震災のとき、諸外国からさまざまな支援をいただいたのにも、外務省時代のつながりが背景にあります」
ほかにも、ISOに関する国際会議の誘致、フィリピン名誉領事館の設立など、知事のこれまでの経歴や人脈によって実現できたものがさまざま。「岩手に貢献できることなら、あらゆるリソースを活用したい」と話します。
●未来に向かって岩手をひとつに
知事就任1期目に、知事は2018年までの10年間の「いわて県民計画」を策定。その後も修正やアップデートを行い、3期目には「いわて県民計画(2019〜2028)」を策定しました。
「県民一人ひとりが幸福を追求できる地域社会、という『岩手の未来像』を掲げ、その実現にはどんなプロセスが必要なのかを『仕事・収入』『家族・子育て』などの分野に分け、それぞれの目標や重点的に取り組む施策を設定しています」
この県民計画のような長期的展望に基づく計画をきっちり作り、政策を展開している県は珍しいほうで、地方自治を研究している学者さんなども驚くそうです。こうした「目標を実現させるためのプロセス作り」は、達増知事が学生時代から意識してきたことにも共通しているそう。
「受験勉強も、討論や弁論もそう。『あるべき姿』というゴールを明確にイメージし、そこに至るまでのプロセスを綿密に組み立てるんです。そういうものの見方は、いままでを通して培ってきたのかもしれません」
東日本大震災、新型コロナウイルスの感染拡大など、ここ10年の間にも、さまざまな危機に直面している岩手県。「それでも、この仕事はやりがいがある」と、達増知事。その原点は、中学時代の生徒会活動にも紐づいていると話します。
「文化祭など、同じ目標に向かってみんなで力を合わせて取り組む一体感を、知事になった今も大切にしています。一人ではできないこともみんなでやると達成できる。そして、岩手県には、日頃支えてくれる職員をはじめ、一緒に取り組んでくれる頼もしい仲間がいる。県民計画に掲げた岩手のあるべき姿も、県民のみなさんと一緒に、希望を持って実現していくことができるのは、これ以上ない大きなやりがいです」
「現在、新型コロナウイルス感染症の影響のなか、感染防止を図るとともに、医療の現場では、岩手県医師会の小原会長や岩手医科大学の小川理事長はじめ多くの医療関係者の皆様のご協力をいただいて新型コロナウイルス感染症対策を行っています。自分や家族、大切な人を守るためにも県民の皆さまのご協力をお願いいたします」
県民とともに築いてきた故郷いわてのために。未曾有の危機をチャンスに変えるべく、達増知事の掲げる挑戦は続きます。