さんさ太鼓への思いをつなぐ

さんさ太鼓への思いをつなぐ

インタビュー
髙松義雄太鼓店 四代目代表 髙松孝治 さん
髙松義雄太鼓店 四代目代表
髙松 孝治 さん
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● 無口な先代から教わったこと

 盛岡の夏の風物詩「盛岡さんさ踊り」。今年で47回目を迎え、昨年は約2万3千人が出演し、多くの人を魅了しました。そんなさんさ踊りに欠かせない黒い縁と赤の三角印が特徴的な「さんさ太鼓」。縁から聞こえるパチパチという音と面を打った時の力強い音がさんさ踊りの夏を彩ります。

「太鼓が揃ったときの腹に響く音が良いよね」と話すのは髙松義雄太鼓店四代目代表の髙松孝治さん。30歳の時に義父である先代から店を手伝ってほしいと言われ、会社員を辞め太鼓作りの道に進んだと言います。「力仕事や慣れないことが多くて大変でした。太鼓の面に使う牛皮を加工し円形に張る作業は技術が必要なので先代がやって、私は桶(胴部分)や面の色付け、穴を開けて縫い合わせるなどの作業をしていました」と当時を振り返ります。「先代は無口な人で見て覚えろという雰囲気だったので、仕方なく先代の手元を見ながら作業を学んでいきました。何かあっても後からボソッと言われることが多く、最初から言ってくれたら…と思いました。ただ、口うるさく言う人ではなかったので、次はこうやったらいいのかと自分のやり方を見直して考えるきっかけになりました。そのうち、自分に合ったやり方や道具などがわかってきました」と学ぶ意欲を持ち、実践してみる大切さを知った髙松さん。徐々に重要な皮の加工作業も任されるようになります。「皮を仕入れ、薬を使って毛を取るのですが1枚50‌kgほどある皮を持ち運びするので何度も腰を痛めました。毛が抜けたら今度は皮を削って厚さを揃えるのですが、これがまた難しくて。機械で測れないので感覚で削るしかなく、先代にもまずはやってみろと言われました」と感覚を掴むため何度も挑戦したそう。「このくらい削れば、どのくらいの厚さになるか手に覚えさせてきました。30年近くやっているけど今でも難しいと感じます」と職人技に天辺はないと言います。紆余曲折がありながらも先代と二人三脚で店を切り盛りしていきます。

● 受け継がれていく伝統への思い

 その後も太鼓作りに励み20年近く経った頃、先代が病気になり他界してしまいます。「ずっと一緒に太鼓を作っていたので実感が湧きませんでした。それから、どうしたら1人で作業をまわせるか考えましたがうまくいかず、皮の仕入れから最後の仕上げまで重労働が続くので体も辛くて。出勤前の息子に声をかけて重いものを運ぶのを手伝ってもらった時もありました」と思うように仕事が進められず大変だったそう。そんな状況が4、5年続いたあるとき息子の恭兵さんからある思いを告げられます。「息子が仕事を辞めて店を継ぎたいと言ってきました。今まで一度も継いでほしいと言わず、自分の代で終わるかもと思っていたので驚きました。けれど自分からやりたいと言ってくれたのが嬉しかったです」。そして恭兵さんの申し出を受け入れ、共に仕事をすることに。「祖父が亡くなって、ずっと1人で大変そうだなと思っていました。悩みましたが、懸命に働く父の姿を見て店を継ごうと決心しました」と恭兵さん。この日からまた二人三脚での太鼓作りが始まりました。

 2人で仕事をするようになり今年で9年。今では恭兵さんの仕事ぶりも板に着き、頼もしい存在になっています。「1人と2人では効率が全然違います。今は息子なしでは仕事はできません」と阿吽の呼吸で作業する2人。今後は自分の引き出しに眠る技術を伝えていきたいと髙松さんは話します。「伝統があるものなので私も先代からそのまま引き継いできました。これからも良さを残したままつないでいきたいです」と語る髙松さん。2人の職人の思いと共にさんさ太鼓の音が今年の夏も鳴り響きます。

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プロフィール

1962年、雫石町生まれ。25歳のときに髙松義雄太鼓店に婿入りし、30歳で本格的に太鼓作りを始める。不慣れながらも太鼓作りの技術を学び、平成10年頃には100個近くの太鼓を製作したことも。10年近く前に太鼓用の桶が入手困難になり太鼓製作の数も減少。太鼓やバチの修理も行なっている。座右の銘は「どんな仕事も手を抜かない」

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