おかげさまで100周年

おかげさまで100周年

インタビュー
こうや呉服店 代表高屋 一成 さんと裕美子 さん
こうや呉服店 代表
高屋 一成 さん
(64)
高屋 裕美子 さん
(59)

● 大正13年創業こうや呉服店の歩み

 今年10月に100周年を迎える盛岡市本町通の「こうや呉服店」。その歴史は1924年に初代・高屋市郎さんが小間物・メリヤス商「高屋商店」を創業したことに始まります。「開店時の帳面を見ると羽織の紐八銭、洗濯石鹸十銭と書いてありますから、反物だけでなく何でも扱う雑貨店だったようです」と三代目の高屋一成さんは話します。

 戦後は和服が普段着として着られていたため、反物がよく売れたといいます。しかし、洋服が主流になると、和服は特別な日の装いとなっていきました。「時代の変化に合わせて商売の仕方も変わってきたようです」と高屋さん。初めのころは、病院や役所などに出向き洋服の出張販売も行ったといいます。「1951年頃に父が撮影した店の写真には『こうや和洋装店』の看板が掲げられています。需要が減っても反物を扱い続けたのは、祖母が着物好きだったからでしょうね」と高屋さん。小学一年生の時、祖母と二人で寝台列車に乗り、東京・日本橋まで反物の仕入れに連れて行ってもらったことが忘れられないと話します。

 大学まで地元で過ごし、卒業後は東京・大阪でサラリーマンをしていた高屋さん。30歳を目前に仕事も面白くなってきた頃、父の竹男さんが病に倒れました。「店を建て替えたばかりで借金があったので、親を助けようと戻ってきました」と高屋さん。「実際に店に立つとあまりにも雑然としていて。東京の百貨店とのギャップにショックを受けて、何とかしなければとスイッチが入りました」と続けます。まずは着物について知ることから始めようと、奥さまの裕美子さんと勉強会に参加。その後、何度も問屋や機屋に足を運びました。「染め、織りと一つひとつの仕事を見て、職人さんに直接お話を聞いて。本当にすてきな商品を目の当たりにして心躍りました」と高屋さん。「今まで見たことのないようなものがいっぱいありましたから、その美しさにときめきました」と裕美子さん。数字だけを見てどう売るかばかり考えていた時期もありましたが、着物の本場で学び、知れば知るほど商品の素晴らしさに目覚めていったと話す高屋さんご夫妻。この素晴らしさをお客さまに伝え、喜んでもらいたいという思いがどんどん深まっていったといいます。着物を介して人脈も広がり、大量生産できない京都の職人手作りのものなど「良いもの」を仕入れるルートも広がっていきました。

●着物の素晴らしさを伝えていきたい

 現在も和服と洋服を取り扱う「こうや呉服店」。1997年には矢巾町のショッピングモールアルコ内に婦人服店「ブロッサム」、2007年には盛岡市南大通に「和のくらし 小袖」をオープンしました。「初代から始まって先代、お母さん、長くお店に立つ社員さんが築いてくれたお客さまとの関係性があるから、私たちは次々と新しい挑戦ができるんです」と裕美子さん。90周年の節目には本店を改装し、より専門性を高め仕立てからコーディネート、着付け、お手入れ、そしてシミや汚れを落としたり寸法直しや染め直しなど着物の困りごとに幅広く対応する悉皆まで、お客さまの「こうしたい」を叶える「きもの専門店」として歩み出しました。

「あるお客さまが震災で海水に浸かったお母さまの着物や帯を持って来られたんです」と高屋さん。店で水洗いして砂を落とし、京都に送りきれいに復元してお客さまにお渡しすることができたといいます。「その後、復元した羽織でバッグを作りたいとご相談をいただいて。そのバッグとお母さまの帯を締めて、娘さんが成人式に出られたと聞いて、胸が熱くなりました」と裕美子さん。それぞれの思いを重ねながら親から子へ、そして孫へと受け継いでいけるのも、着物ならではの良さだと話します。

「着物の良さをもっと身近に感じてもらえるように、和のアトリエのような場を作りたいと思っています」と高屋さんご夫妻。100周年を迎え、これまで支えてくれたお客さまへの感謝を忘れず、お客さまと一緒にときめくために、美を追求していきたいと話します。

プロフィール

1960年、盛岡市生まれ。岩手大学卒業後、東京・大阪でスポーツメーカーに勤務。父親が体調を崩し1989年に帰郷し「こうや呉服店」三代目を継承。大阪で出会った裕美子さんと結婚し、家族とスタッフ一丸となって県内3店舗を切り盛りする。座右の銘は「禍福は糾える縄の如し」

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