長年ずっと答えを探している記憶の真偽がある。ことの発端はもう25年ほど前。その日、私は深夜のラジオを聴きながら車を運転していた。忘れもしない、その日は3月3日で、パーソナリティーは桃の節句に引っ掛け一つの短編小説を紹介していた。タイトルは『帰郷』。主人公はヘリで帰郷する。上空から見た桃畑は花が満開で美しい。その後、桃畑の田舎道を歩いて行く主人公。やがて道の向こうから子どもを抱いた男がやって来る。よく見ると男は若い頃の父親である。父は息子である主人公にこう言う。「今お前が生まれたよ」。
私は興味を持ち、後日この『帰郷』なる物語を探し出そうとしたが、いくら調べても分からない。やがて電脳時代となりネット検索を試みたがいまだに似た話すらヒットしない。事あるごとに文学に造詣の深い方も含め、いろんな人に相談したが知る人はいないままだ。運転中に居眠りして夢でも見ていたのだろうか。いや、そんなことはない。
確かに聞いたのだという自信を持ちつつも、そもそも記憶というものほど曖昧なものはないのだろうなという気もしている。自分にとって都合のいいよう、無意識に改ざんしてしまっている可能性もある。記憶とは実に優柔不断なものであると言わざるを得ない。
記憶の曖昧さという点で、こんな実体験もある。幼少の私は親戚たちと宮古湾内の藤ノ川海岸に海水浴に出かけた。そこで私は、叔父に「泳げるようになるから」と海に投げ込まれたのである。港町にありがちなある種の古いスパルタ教育だ。海中でもがき、吐き出した泡が、見上げている強い光が滲む海面に向かってボコボコと上がって行く光景が目に焼きついている。すぐに海に投げ込んだ叔父によって私は助け上げられた。
長いこと、私はこの記憶とともに生きて来たわけだが、つい先日、どうやらこれは現実とは違っていたようだと知った。母にこれを話して聞かせたところ即座に「それは間違った記憶だ」と否定した。確かに叔父は私を強引に海に入れようとしたらしいのだが、それを嫌がり逃げ出した私が勝手に岩場で転んで海の中に落ちて行ったのだと言うのだ。どう考えても5歳ぐらいの子どもより、大人の記憶の方が正しいに違いない。長い間、私の恐怖の記憶は、その時の被害者意識が生んだ偽記憶だったのである。
話は再び『帰郷』に戻るが、前述したようなことが多々混じりながら、曖昧に信じているのが記憶の真実だとしたら、今なお桃の節句が来るたび頭を悩める、朧げなまま探し求めている記憶も怪しいものかもしれないと弱気になる。しかし本当に存在しないなら、創作の神様がくれた贈り物と信じ、自分でしっかり書いて発表してしまうのも一つの手だ。実在するのが後で分かれば盗作騒ぎになるが、それも含め話題作りにはいい。私はこの先も記憶迷宮から脱出できそうにない。