怪談ブーム真っ最中のようだ。そこで私も久しぶりに季節はずれの怪談を紹介ようと思い立った。だが、その前にまずは当世の怪談を取り巻く基礎知識を説明する必要がありそうだ。今や怪談とひとくちに言っても混沌とし過ぎているからである。
『広辞苑』によれば「怪談」とは、「ばけものに関する話。妖怪・幽霊・鬼・狐・狸などについての迷信的な口碑(こうひ)・伝説。それらが登場する落語を怪談噺(ばなし)、それらを主題とする小説・浄瑠璃・講談・落語などの総称を怪談物である」と解説されている。「迷信的な口碑・伝説」と定義されているということは、つまりは《創作怪談》を基本としているわけである。
近年、これに加えて、無料動画サイトやSNSを舞台に「怪談師」と名乗る人たちが多数登場して来た。この人たちが使う言葉が《実話怪談》。1990年頃に『新耳袋』系の本から生まれ、現在ではネット方面に広がっている。創作物としての怪談とは一線を画す「本物の怪談」という意味なのだろう。だが、これらを「実話怪談という名の作り話」と揶揄(やゆ)し、所詮、創作の範疇(はんちゅう)にあると指摘する研究家もいるのが現状。
それはさておき自称「怪談師」たちは、自らが語る《実話怪談》の優劣を競うということを日々ネットやイベントでやっている。頂点を目指し、互いを高め合う姿勢は素晴らしい。ただ本来、怪異の体験談というものには、それぞれに、それぞれの恐怖が宿っており、他と比較し、優劣をつけることに意味を持たない気がしている。ただし彼らが「語りの技術」を純粋に競っているということなら理解できる。そもそも古典的演芸としての怪談も話術で惹きつけ、人気を博して来た芸なのだ。自分が小学生だった頃を振り返っても、怪談が得意だった先生というのは人気あったものな。
古来伝承されて来た《創作怪談》も、今流の新たな《実話怪談》も、ともに作り物であってもいいと私自身は思っているし、競い合ってもいいと思っている。何より聞き手にとって面白いかどうかが肝心だと考えるからだ。だからこそ外見だけ着飾るのはやめてもらいたいとも思う。
ただ、どうしても解せないことが一つある。創作が不得手だった自称・怪談師なる人が、元ネタをより多く集めておきたいと、ネット等で「怪談、買います」などとやってしまっていることだ。さすがにこれには強い違和感を覚える。伝承される話の興味深さを、寡黙に、真面目に、きちんと伝えようとしていた遠野物語の採話者・佐々木喜善を尊敬する私からすれば忸怩(じくじ)たる思いである。
私的嗜好になるが、その土地に残る言い伝えや怪異譚は、やはりその土地の人が、その土地の言葉やニュアンスを交えて語るのが一番大切ではないかと思う。地酒や地魚があるように、怪談にも「地怪談」があるはずだ。そしてそれは、聞き手が方言を理解できなくても、なぜか伝えたいことがすんなり伝わってしまうから不思議だ。「怪談」というものは、語られる言葉も含めた土着文化なのだと感じる。