深夜のテレビでも取り上げていたが、エミシと呼ばれた民と、アイヌと呼ばれた民をどう分類するかといった話は、深掘りするほど興味深さも増す。住む土地が違うだけで実は同族なのか、あるいはよく似てはいるが異なる人種なのか。
先回りするようだが、そんな竹を割ったように白黒つくものではないだろうというのが私の持論だ。
もともと異なる民族が時間をかけて交わり同族化することは当然ある。今だってそうなのだから、昔もそうだ。仮にどうしても迎合できない関係というのもなくはないだろうが、私自身、北の民である者としての皮膚感覚でも混血していて当然という気がする。
そもそも、どちらも縄文人にルーツがあるのではないのかとも考えている。縄文人の末裔の枝葉の近いところにエミシもアイヌもある気がするのだ。
正しい学者ではないので「気がする」としか言えないのはもどかしいが、私のような謎学愛好家にとっては「わからないことほど面白い」わけなので、それはそれでいいのだ。
話ついでに言うと、あまたある伝承や信仰に関しても、現代に伝わってくる過程で、経て来たその時代に応じたさまざまな人の願いや都合や感情が加わり、シンプルに説明できるものではなくなっているケースが多い。これまた、なかなかわからない面白さに満ちている。
さて、それでは『遠野物語』によく出てくる山男はどうなのか。一説には三陸海岸に漂着した異国民が、浜人に追われて山中に逃げ込んだものとの説がある。だが、それだけだろうか。人生いろいろ、山暮らしの理由いろいろである。時にセオリー無視で考察しなければ出てこない説もあるはずだ。
先日私は100枚ほどの小説で《佐々木喜善(きぜん)賞》を頂いた。遠野物語の伝承蒐集(しゅうしゅう)者である喜善さんを主人公にした『せつなの瀧』だ。その中に薬師岳の山塊に棲まう山男を登場させた。私は山男と呼ばれた者たちの一部には、縄文人の末裔か、その系譜に近い筋の民が混じっていると信じているが、物語の中では、古来、霊山の山中にて狩猟採集をしながら、人々の安寧を願って祈祷することに生涯を捧げている修験(しゅげん)の民という設定にした。縄文からつながる精神性のもと、豊かな森羅万象の営みとともに生き、神々に祈りを捧げる民であったが、永い時間とともに捻じ曲がり鬱屈した正義感を携えてしまったという設定だ。
そういえば遠野には、昭和中期あたりにも山男らしき者に会った人がいたという話を数年前に聞いた。山奥での治山工事に携わる人の話だと記憶するが、その詳細はなぜか朧(おぼろ)げだ。山男は記憶を消せる能力があるというから、きっとそれかもしれない。