第55回 大通・菜園界隈(前編)

第55回 大通・菜園界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 ひと昔前、年越しや初売りの時期になると市内でもひときわ賑わいをみせていたのが「大通・菜園」界隈でした。

大通り・菜園界隈マップ

 1624~43年(寛永年間)の頃の盛岡城下図によると、城下盛岡には、現在の大通商店街のところを北上川が流れていて、今あるサンビルの角で大きくカーブしていました。「あの通りは川だったんだ」と初めて城下図を目にした時には驚いたものです。さらに江戸中期、1748~51年(寛延年間)の城下図には、川の流れを切替えてできた新しいえん堤に沿った一画が「新築地」、流れを絶たれた旧河道が沼地や湿地として残り、現在のアートホテル盛岡や七十七日生盛岡ビルの前は「古川端」と記されています。

 資料によれば「北上川は外堀の役目を果たす一方で毎年のように洪水を引き起こし、1670(寛文10)年の「白鬚水」と呼ばれた大洪水では城下全域に大被害が生じたため、1672(寛文12)年、29代南部重信公が河道修正の大工事に着手、2年後の1674(延宝2)年に完成した」とあります。それにより現在の開運橋と旭橋の中間に土手が築かれ、今日の流路に切替えたというわけです。

 お城の対岸にあった広大な土地は、野菜や薬草などを栽培する御菜園として整備されました。同時に大沢川原を侍小路とし、旧仁王小路(現・中央通)を結ぶ道「大沢川原表小路」を通しました。この道路が後の「柳新道」、現在MOSSビルなどがある通りです。

 1844~51年(弘化・嘉永年間)には、38代利済(としただ)公が菜園地区に「蓬莱(ほうらい)馬場」や「曲水亭」といった遊園施設を作り、貧困にあえぐ領民の反感を買ったこともありました。明治時代に入り、鉄道開通による盛岡駅開業、開運橋架橋は当然ながら新制盛岡市の街づくりにも影響を及ぼすことになるのですが、この一帯は南部家所有地であったため全く手つかずで、大正期に至るまでほとんどが水田のままでした。

 古くは北上川の川床だったこの一帯が盛岡の一等地になるとは。そこには時代と人々が織りなす物語がありました。

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