旧油町横丁から旧大工町の通りに入っていくと、左側に古い佇まいが残っています。その塀には「大工町町内会告知板」が掛けられています。旧町名がしっかりと息づいているのを見て嬉しくなります。しかしその先に続く道沿いには、職人の町だった面影を見出すことは残念ながら困難です。それでも幾分、民家・アパート・駐車場などの敷地の形状に、短冊状に区切られた昔の小間割を垣間見ることができます。さらに進むと、南側の突き当りに内丸メディカルセンター、北側に油町の名刹(めいさつ)・大泉寺の境内や東顕寺(とうけんじ)の本堂が臨める路地と交差します。この路地ですが、城下町の古地図だけでなく1928(昭和3)年に発行された地図にもありません。ところが1947(昭和22)年発行の地図には載っています。これは戦時中、空襲による延焼を避ける目的で強制的に建物を除去するいわゆる「建物疎開」によってできた新道なのだそうです。
旧小本街道を横断し通称・上大工町に進むと、明治時代から地元の人たちに利用されてきた銭湯「梅の湯」がありました。(2015年10月廃業)。仕事を終えた職人衆や御座敷に出る前の芸者衆が男湯、女湯ののれんをくぐっていたのでしょう。
この町からは二人の音楽の達人が出ています。一人は新藤武(1889〜1981)。教師の子として旧大工町に生まれ、長じて東京音楽学校(現東京芸大)に学び、岩手に戻って音楽教育に心血を注ぎました。岩手の洋楽の草分けである弦楽四重奏団「太田クワルテット」を熱心に支援した人でもあり、「音楽教育の父」として先人記念館でも顕彰されています。もう一人は、岩手民謡界の黄金時代を築いた二代目福田岩月(1913〜1960)。大工職人の五男としてこの町に生まれた彼は幼くして父親と死別、納豆売りや大工見習いをして苦労しましたが、納豆売りの声のよさが評判で、ずいぶん売れたといわれるほどの美声の持ち主。市内の町名を織り込んだ自作の「盛岡町名おはら節」が大人気でしたが、住居表示法が施行され、大工町をはじめ歴史的町名の多くが消えてしまったのは、彼が亡くなって3年後の1963(昭和38)年のことでした。
(後編へ続く)