第70回 旧上田三小路界隈(後編)

第70回 旧上田三小路界隈(後編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

前号に続き、「上田三小路」界隈をご案内しましょう。

旧上田三小路界隈マップ

 明治維新による南部藩の解体と士族階級の凋落は、南部藩地だった侍町の上田三小路にも大きな影響を及ぼしました。離散、転職、移転を余儀なくされた旧士族も多く、この界隈は一時閑散となった時期がありましたが、最大の転機は1902(明治35)年、「上田新小路」地区一帯が国に買い上げられ、その翌年わが国初の国立盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)が開校したことでた。農学科、林学科、獣医学科の3学科がおかれ、各地から若者が入学を志願して集まると同時に優れた研究者や教育者の行き来も始まり、この地区に居住する学者も増えるなど文教地区としてスタートしたのでした。さらに、1917(大正6)年には、それまで内丸(現岩手銀行本店)にあった盛岡中学(現盛岡一高)も高等農林隣接地に移転し、いよいよ岩手高等教育のメッカになったのですが、その代わり「上田新小路」は完全に消滅、実質「上田二小路」になってしまったのです。

 武家屋敷当時の面影は、現岩大農学部付属植物園内にわずかながら残っています。農学部通用門(旧正門)近くには見事な這い松「山辺の松」、啄木の妻・節子が産湯を使ったという実家堀合家の井戸、初代盛岡市長・目時敬之の生家の庭に並ぶ大樹「目時のヒバ」など農学部のキャンパスを歩くと屋敷林や古い庭木などに出会うことができます。高等農林の学生だった宮沢賢治ゆかりの木もあり、散策にはもってこいの場所です。

 初代校長・玉利喜造博士お手植えのイチョウの大樹を左右に見て農学部通用門を出ると、70 mほど先で上田小路につきあたります。この上田小路と山田線に挟まれた一画には昭和レトロな家並みが今でも残っていますが、少しずつ変わってきています。十数年前の上田三小路町内会の会報に、「風格ある文教地区が道路やクルマによって分断されるのでは」と心配する声が寄せられていましたが、今や上田小路の道路は中央病院前から梨木町方面へと四車線に拡幅され、往時の面影を残すのは旧正門前の桜並木ぐらいになってしまいました。

(後編へ続く)

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