第80回 旧本町・大手先界隈(前編)

第80回 旧本町・大手先界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 城下盛岡から諸街道への起点にあたる一里塚が旧鍛冶町にあったことは、以前ご紹介しましたが、その起点から上の橋を渡り奥州街道や小本街道に向かう人たち、また逆に街道を利用して北側から盛岡に入ってきた人たちが最初に通る商店街が旧本町でした。

旧本町・大手先界隈マップ

 三戸から盛岡に居城を移す大事業を父・南部信直公から引継いだ27代利直公は、築城と並行して城下町を造成。最初に町割された河北地区の旧三戸町には、三戸から移ってきた町人たちを居住させましたが、同時に近江や京都出身の商人たちを招聘(しょうへい)して、上の橋を挟む一帯に定住を促しました。とりわけ現在の本町通一丁目にあたる道筋は、盛岡城の大手門(追手門ともいわれる)を擁する一等地。ここに呉服屋、古手商(古着屋)、旅籠屋、雑貨商、菓子商、ござ縄商、味噌醤油商など商家を配置し、京風構えの町屋が多かったことからも当初は「京町」と呼ばれていました。

 藩の歴史書ともいえる「内史略」によれば、1753(宝暦3)年、幕府から日光東照宮の修復費用拠出を要請された藩は、城下の商人たちに御用金を課し、京町の商人たちは河南地区の豪商が集う旧呉服町 (現在、啄木・賢治青春館がある通り)と競うほどの御用金を負担していました。

 ところで、「いにしえ散歩」で度々出てくる1812(文化9)年という年は、石高の加増に伴いそれまで23の町割りだった盛岡城下が28の町割りに拡大された年ですが、町が増えただけではなく 「町」から「丁」に表記が変更になりました。また一部はその町名も変えられました。そのひとつがこの京町で、「京町」から「本丁」(さらに明治以後、本町に変更)になったのです。なぜ本丁なのか。本屋さんが特に多かったとも聞きません。他の都市では「元町」という町名がよくありますが、本の意味も「ほん」というよりは「もと」だったのかもしれませんね。

 町名が変わったとはいえその繁栄ぶりは変わらず、明治になり盛岡駅開業後も、また大正から昭和にかけて大通商店街が誕生し人の流れが変わってからも、河南地区の肴町と並び盛岡を代表する繁華街のひとつという存在感は昭和40年代まで続きました。

(後編へ続く)

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