第86回 八幡町界隈(後編)

第86回 八幡町界隈(後編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 前号に続き、八幡町界隈をご案内します。

 八幡町が最も繁栄したのは1884(明治17)年の河南大火で一度焼け野原になった後のことです。

 大火の後、まず最初に建てられたのが、消防第四分団「い組」の番屋でした。火事に強い街づくりを進める中で、次々に旅館や料亭、待合などの建物が再建され、芸妓も戻り、にぎわいぶりは大火前をしのぐものとなりました。

「い組」の番屋は消防施設としては国内最古の望楼付き番屋で、2003(平成15)年に新築計画が始まった際、市民による保存運動により望楼部分は解体を免れ、新しい建物の屋根に冠して今も町を見守っています。

 ところで、生家の下小路から八幡町に引っ越してきたばかりだった米内光政少年も、河南大火で焼け出された一人。道を隔てた向かい側の温泉横丁の親戚の家に移り住み、海軍士官学校に進むまでの10年余りをこの町で過ごすことになります。八幡宮の境内には、後に総理大臣となった米内光政の銅像が建っており、米内少年がそこらで遊んでいたであろう往時の名残を感じさせます。境内にはもうひとつ、1876(明治9)年、明治天皇の東北御巡幸の際、八幡馬場において400頭にも及ぶ南部馬を天覧に供したのを記念して建てた明治天皇像があります。

 また、本殿の入り口に立っている石標に書かれた「盛岡鎮守」の文字は、皇后雅子さまの曽祖父で盛岡出身の海軍大将・山屋他人の筆によるものです。

 八幡町には温泉横町、堰横町、帰命寺横町、いろは横町、坂の上、坂の下など地元の人たちに通用する地名も健在で、こうした横丁や裏路地を訪ね歩くのも散歩の楽しみです。

 秋には、太鼓の響きや「ヨイサ~ヨイサヨイサーヨイサーのイエー」の掛け声と共に山車が練り歩く「盛岡秋まつり」(八幡宮例大祭恒例、山車の八幡下りパレード)も行なわれます。

 八幡町が盛んだった頃の面影を今に見いだすことは難しくなったものの、昔から続く伝統や行事が消滅しない限り、「お八幡さん」とともにこの町は生き続けていくことでしょう。

(後編へ続く)

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