第88回 〜みちくさ編〜 旧大沢川原小路界隈(前編)

第88回 〜みちくさ編〜 旧大沢川原小路界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 今回は盛岡駅を背に開運橋を渡っていきます。すると街路が4本に分かれます。一番右側のスイミングスクール前から市の景観重要建造物「旧宣教師館」を経て、下の橋まで延びる道筋が「旧大沢川原小路」と呼ばれた通りです。2006年に不来方橋が開通し、この辺の様相は一変しましたが、実は初めてではありません。約350年ほど前にも、町並みを大きく変える巨大プロジェクトがあったのです。

 盛岡城下造成の初期、北上川は旭橋下流あたりから大きく蛇行、現在の大通商店街のコースを流れサンビル付近でさらに湾曲し、石垣を洗いながら下の橋の下流で中津川と合流していました。三戸から盛岡に居城を移すことを決めた26代信直公にしてみれば、2本の川に挟まれた不来方の地は「天然の要塞」にも見え、理想的な立地だったのかもしれませんが、毎年のように「水害」という難敵に襲われ悩まされ続けたのです。

 出水との戦いに果敢に挑んだのが29代重信公。1670年に起きた記録的な大洪水を機に、北上川の流路切り替えに着手。1674年には新築地で流れをせき止め、南に直行して雫石川と合流する現在の流路が完成したのです。

 この時、それまで城の対岸にあった湿地帯が城下に組み込まれたことから、この一帯の運命が変わりました。お城御用達の野菜畑「御菜園」や諸士階級の屋敷町「大沢川原小路」が造成されたのです。

 時代が下った1853年、諸士37名の屋敷が、時の藩主38代利済公により全て取り壊される事件が起きました。殿さまは菜園の一部をつぶして「蓬莱園」と呼ぶ庭園や馬場を作り、隣接する屋敷町をつぶし「御休憩所」という別荘を建てようとしたのです。37名の家臣とその家族は、上田や加賀野の「新小路」に移転させられました。しかし、この計画は領内を揺るがす「三閉伊一揆」により中止され、茫々たる荒れ野原が残ったのです。

 幕末に再び希望する侍に 払い下げられ、屋敷も立ち並び小路の体裁も昔に戻った頃、戊辰戦争で敗戦し廃藩となってしまいます。次に大沢川原小路が大きく変化するのは鉄道が開通し開運橋が架けられた1890年以降ということになります。

(後編へ続く)

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