旧大沢川原小路界隈は、1890年の鉄道開通で大きく変化しました。河南地区や仙北町方面と駅を最短で結ぶ重要なアクセス道路として交通量も増え、旅館や商店、そして職人さんたちも張り付くようになりました。道路の拡張工事に伴い建物の取り壊しやセットバックが進み、再び様変わりした街並みを歩いてみます。
開運橋から不来方橋方面に進むと、盛岡市の景観重要建造物に指定される「旧宣教師館」が見えてきます。案内板によると、下ノ橋教会に派遣した宣教師の住居として1920年に建てられたとのこと。社会教育事業や平和運動に貢献したシュレーヤー宣教師夫妻もここで暮らしたのだろうかと思いをはせながら「善隣館」へ。裏手には外国人旅行者に人気の宿「熊ヶ井旅館」があります。道路を挟んで隣には老舗旅館「大正館」がありますが、残念ながら1912年築の木造3階建ての建物は残っていません。脚本家・内館牧子さんの父上の実家がこの近所にあったそうで、子どもの頃遊びに来て杉土手まで散歩したり川で遊んだりした思い出を講演で語っておられました。
この辺りには県内最古の鍛冶屋といわれる「坂本刃物農具製作所」、東北で唯一といわれる1922年創業の「塩釜馬具店」があり、職人さんたちが今も頑張っています。
下の橋方面へ歩みを進めると「岩手女子高等学校」があります。この場所に盛岡二高の前身である盛岡高等女学校、その後に岩手中学があったことは前にご紹介しましたが、岩手女子高等学校は、1921年の開校時には盛岡城跡公園の「彦御蔵」の場所にありました。現在地に移転した後、その校舎は「不来方中学校」として使われたわけですが、その話はまた別の機会にご紹介します。
さらに進み、下の橋のたもとで左に曲がります。「賢治清水」や「賢治の井戸」など、この地に下宿していた宮沢賢治の痕跡を辿りながら、ぐるりと川徳方面へ。私が小学生だった頃、川徳がある場所は大きな魚市場でした。昼過ぎには市場は静かで広大な遊び場となり近所に住む友人と野球をして遊んだものです。少年時代の記憶が懐かしくよみがえる旧大沢川原小路界隈、だいたい3000歩のみちくさでした。
(後編へ続く)