第94回 〜みちくさ編〜 旧四ツ家町界隈(後編)

第94回 〜みちくさ編〜 旧四ツ家町界隈(後編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 前号でもご紹介しましたが、仁王小学校前バス停側にある金田一薬局は金田一京助の生家跡です。1882(明治15)年5月5日にこの地で生まれ、ここから盛岡中学(現在の岩手銀行本店付近)に通学していました。金田一家の当主・金田一勝定は岩手軽便鉄道、盛岡電気会社、盛岡銀行を起こすなど岩手の近代化に力を注いだ明治の大実業家。この人の戒名には「鉄心院銀覚電栄居士」と三大事業が盛り込まれているそうですから恐れ入ってしまいます。京助は彼の甥にあたります。

 通りを進むと盛岡せんべい店②、左手にはこうや呉服店③があり、その先に「田中の地蔵さん」と呼ばれる赤い頭巾をかぶった大きなお地蔵さんが座っています。正式には「大智田中地蔵尊」と称し、市の有形文化財に指定されるこのお地蔵さん。南部氏30代行信公が生母である於俊の方(戒名大智院殿)の23回忌供養のために元禄年間に造ったもので、元々は北山の東禅寺前(現在の盛岡視覚支援学校正門前付近といわれています)に広がる田んぼの中に鎮座していたことから「田の中の地蔵さん」と呼ばれていました。盛岡市長を務めた北田親氏さんをはじめ四ツ家町の有志が「爾来幾多の星霜を経て四囲荒廃し、空しく雨露に晒され信者も減少するに至れり」と南部氏43代利淳氏に願い出て、1912(大正元)年に現在地に安置されたものです。以来、安産・家内安全のお地蔵さんとして地域の人々に愛され続けています。道路側には「四ツ家総門跡④」の標柱が立っています。

 三戸町公民館の向かいを左へ入る路地の角に「赤川堰跡」の石碑⑤があります。四ツ家町と三戸町の堺を外堀と農業用水を兼ねて流れていた赤川堰の跡を歩き、上り坂になっている最初の路地を左折すると、侍屋敷が並んでいた谷小路へと続きます。東洋一の荷札屋として名をはせた川口印刷工業の角を右折し、カトリック四ツ家教会へと戻ります。

 昨年、カトリック教会の枢機卿に任命された菊地功さんは宮古市出身。伝道師だった父親の転勤でカトリック四ツ家教会に移り、ここで暮らし仁王小学校に通っていたといいます。旧四ツ家町界隈、だいたい1500歩のみちくさでした。

(後編へ続く)

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