江戸時代後期、1773(安永2)年の冬のこと。江戸浜町の自宅にいた小浜藩医杉田玄白の元を衣関甫軒(きぬどめ ほけん)という青年が訪ねました。衣関は一関藩医建部清庵(たけべ せいあん)の門人で、師から預かった手紙を玄白に託したのです。玄白は前野良沢(まえの りょうたく)と共に翻訳した『解体新書』で名をはせる、オランダ医学の第一人者でした。また清庵は医師としてその学識が高く評価されており「一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵」と俗謡にはやされた人物でした。
手紙には清庵が長年抱いていたオランダ医学に関する疑問が記されており、これがきっかけで清庵と玄白との間で手紙が交わされるようになります。このやりとりは後に『和蘭医事問答』としてまとめられ、医学を志す人々の入門書として読まれました。
清庵と玄白との関係は、玄白が江戸にやって来た清庵の末の息子由甫(ゆうほ)を養子にするなど、次第に密接になっていきます。清庵門下きっての俊秀といわれた大槻玄沢は3年間の学資を一関藩から出してもらい、江戸に出て玄白の下で学びました。研鑽を重ねた玄沢は日本で初めてのオランダ医学の私塾芝蘭堂(しらんどう)を開くなど、当代随一の学者となります。清庵がまいたタネは見事に花を咲かせたのです。
建部清庵が住んだ屋敷の一部は現在、磐井川に築かれた堤防になっています。