深沢紅子と宮沢賢治

深沢紅子と宮沢賢治

岩手の先人こぼれ話
岩手の先人こぼれ話シリーズ

宮沢賢治学会 前副代表理事 佐藤竜一さん

 盛岡市を流れる中津川のほとりに、深沢紅子 野の花美術館が建っています。1996(平成8)年にオープンしました。女流画家の草分けともいえる紅子は、1903(明治36)年3月23日、四戸慈文(しのへ しげぶみ)の長女として盛岡に生まれました。紅子は盛岡高女(現盛岡第二高等学校)を経て、東京女子美術学校(現女子美術大学)に学びました。同郷の画家・深沢省三と結婚、第二次世界大戦後は盛岡に戻り、岩手美術研究所を設立したほか、盛岡短大美術工芸科設立に奔走するなど、後進の指導にも尽力しました。

 夫婦で東京に暮らしていた頃には、宮沢賢治と接点がありました。当時鈴木三重吉が1918(大正7)年に創刊した『赤い鳥』という童話童謡雑誌に省三が挿絵を描いており、主宰者の三重吉と親しかったのですが、その縁で友人の菊池武雄から宮沢賢治の童話の斡旋を依頼されたのです。武雄は賢治が自費出版した童話集『注文の多い料理店』の挿絵を描いた人です。賢治は童話作家としての登竜門ともいえる『赤い鳥』を舞台に作家として飛躍したかったのですが、三重吉は作品を評価せず願いはかないませんでした。賢治童話で多用されている方言がネックだった、と紅子が証言しています。賢治は作家として認められず、ほぼ無名のまま生涯を閉じました。

深沢紅子 野の花美術館

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