江戸時代、日本人は当時の先進国オランダから多くを学びました。一関出身の大槻玄沢はオランダの学問(蘭学)の先駆者として知られています。一関藩外科医の長男として1757(宝暦7)年に生まれた玄沢は一関藩の侍医・建部清庵に入門し9年ほど医術を修めた後、江戸に出ます。清庵は文通を通して接点があった杉田玄白や前野良沢から学ぶことを勧めたのです。二人から蘭学を学んだ後、玄沢は長崎に遊学し研鑽を重ねました。江戸に戻ってからまもなく、玄沢は一関藩の本藩である仙台藩から藩医として召し抱えられ、日本で初めての蘭学塾・芝蘭堂(しらんどう)を開きました。33歳の時でした。
玄沢は蘭学の入門書として重宝された『蘭学階梯(らんがくかいてい)』を出版したほか、熱心な研究態度を評価していた師の玄白から『解体新書』の増補改訂を依頼されました。玄沢は28年を費やし、1826(文政9)年に『重訂解体新書』13巻を完成させるなど、医学の進歩に貢献しました。玄沢の息子が蘭学者の大槻磐渓、孫が言語学者の大槻文彦です。一関市にある大槻玄沢邸宅跡には文彦によって碑が建てられました。