● 九戸村が生んだ伝統工芸品
総面積約70%が山林の自然に溢れる岩手県九戸村。太平洋から吹く「やませ」の影響で夏は寒涼、冬は厳しい寒さが続く地域です。この特有な気候でしか作り出せない縮れた穂先が特徴の「南部箒」をご存知でしょうか。コシがありしなやかな穂先は狭い隙間や目地に入り込み、絨毯や畳などの掃除機では取れないようなほこりや毛などもきれいに絡め取ってくれる九戸村の代表的な伝統工芸品です。
「誰が持っても使いやすく、何十年も壊れない南部箒を届けたい」とこだわりを持ち南部箒作りを続ける「高倉工芸」代表の高倉清勝さん。元々農業を営んでいましたが、高倉さんの父親が農業で家計を支えるのが難しいと考え、手に職を持ちたいと思ったのが箒作りのきっかけでした。
● 南部箒の始まり
約60年前、村おこしのために講師を呼び箒作りの講習会を行っていた九戸村。「講師からホウキモロコシの種を分けてもらい種をまくところから箒作りを始めました。農作業の合間に作るので自分たちの分しか作らず、商売にまでしたのは器用でもの作りが好きな父と数人だけでした」と村で箒作りが広まったのが始まりでした。「ホウキモロコシの先が真っすぐなものと縮れたものが育ち、穂先が真っすぐなものだけを箒にしていた父でしたが、次第に縮れたものが余り、試しに箒にして親戚にあげました。すると絨毯のごみがよく取れると言われ、穂先の縮れが小さいごみも掃き出すのではと気づいたそうです」とそこから縮れた穂先に着目。力を入れなくてもごみが掃けるよう多くの穂を渾身の力で編み上げるので縮れた穂先が密集した箒となり、ごみがよく掃け、丈夫で長持ちする南部箒へと変貌を遂げました。
その後、九戸村を出て養豚の仕事をしていた高倉さんは家業を継ぐため帰郷。当時の九戸村は農業で生計を立てるのが難しい農家が多く、後継者不足が問題になっていました。「帰ると養豚と箒作りの両立が厳しいのでどちらを生業にするか決めなくてはいけませんでした。今後を考え、担い手が少ない箒作りを続け南部箒の良さと技術を残していきたいと思いました」と父が情熱を注いだ南部箒の魅力を広め、技術を後世に残したいと工房「高倉工芸」の設立を決意。南部箒を生み出した父を筆頭に高倉さんの南部箒の継承と発展が始まります。
● より良いものを目指し試行錯誤
高倉工芸を立ち上げ父親や一緒に働く職人さんたちから教わりながら本格的に箒作りを始めた高倉さん。より良い南部箒を多くの人に届けたいと考えます。「昔は手で種をまいていましたが畑の面積を広げたので機械を導入しました。種をまく間隔や量の調整が大変で、年に一度しか種をまかないので結果がすぐにわからず、調節に時間がかかりました。誰が触れても安全な箒にしたかったので無農薬でホウキモロコシを栽培するにはどうしたらいいか、など試行錯誤ばかりでしたが楽しかったです」と笑いながら振り返ります。
そんな南部箒のたくさんの魅力を知ってほしいと全国で実演販売を行うため各地に出向くと、都会の人へ良さを伝えるのに苦労したと言います。「言葉遣いが慣れなくて、うまく伝えられず悔しかったです。どうしたら伝わるか悩みましたが他の出店者の様子を見て、話し方や接客のやり方など参考にしました」とここでも試行錯誤を続けます。次第に足を止め話を聞いてくれる人が増え、思いが伝わるように。リーマンショックや震災で物産展が中止され販売ができない状況でも、南部箒へのこだわりは落とすことなく作り続け、共に働く職人の一人が優れた技術者に送られる、岩手県の卓越技能者に選ばれるまでに。その技術の高さは全国に広がり各地の愛用者から声をもらえるようになり、最近では海外からも注文が入ってくると言います。
代表が高倉さんに代わると、お客さんの声に合わせた商品の開発にさらに力を入れていくように。「化学物質過敏症でも使える箒が欲しいと言われ、すべて自然由来の箒の開発を始めました。装飾部分を藍染や紅花染めの職人さんに染めてもらい、その絹糸で編んだ箒を今もずっと使ってもらっています」と手に取ってもらい良かったと言ってもらえる箒を作り続けたいと高倉さん。その熱い思いは父から継いだ南部箒に強く編み込まれています。
高倉工芸で働く職人さんたち。自分たちの目の届く範囲で南部箒を作りたいと全ての工程を手作業で行っており、職人歴15年という方も