● 人との出会いに導かれた人生
「小さい頃よく熱を出して、病院に行くと元気になって。病院の居心地が良かったんでしょうね、3歳頃には医者になりたいと言ってたようです」と話すのは、岩手医科大学附属病院 病院長の小笠原邦昭さん。「今思えば、それを見ていた母が、医者になる気持ちを植えつけてくれたんじゃないかな。そのおかげで、高校時代は好きな野球を我慢して勉強に専念することができて、弘前大学医学部に入りました」。我慢した分、大学では野球三昧の日々を過ごし、東日本医科学生総合体育大会では優勝と準優勝を勝ち取ったと小笠原病院長。
そんな小笠原病院長の転機は、野球引退後に起こります。「野球を引退した大学6年の夏、喫茶店でボーッとしながら脳外科っていいなと呟いたら、向かいの席にいた学生に脳外科やるなら東北大の鈴木二郎だよと言われたのが人生の転機です」と小笠原病院長。すぐに東北大学に通う友人に連絡し、鈴木教授に会いたいと伝えました。「そしたら6時間後に東北大の先生から『小笠原君だね、あんた入局したから』って電話がきて。人の運命って面白いね」と話します。
東北大学脳神経外科教室入局後は国立仙台病院へ勤務。「僕の指導医がブラックジャックみたいな髪型の先生でね。それが小川彰先生(現岩手医大理事長)だったんです。半年間かけて、臨床と研究の全てを小川先生から教わることができたから今の自分がありますね」と運命の出会いを振り返ります。
それから14年後、岩手医科大学で小川先生と再会。「師匠の元で技術を磨いていたら教授になり、病院長にされていました」と笑います。「でもね、僕は異端ですから子どもの頃から生意気で体制に逆らうんです。世の中で正しいとされていることが間違っているということもある、そんな研究データを粛々と集めて論文書いたりね」。我が道を行く研究は次第に評価され、昨年は美原賞(公益信託美原脳血管障害研究振興基金)を、今年は日本脳神経外科学会齋藤眞賞の学術賞を受賞しました。
● 患者のため、地域のための病院づくり
高齢化の先についてお話を伺うと「お年寄りが増えるのはいいんです、それを支える医療人が足りなくなることが問題です」と小笠原病院長。深刻な医師不足の中、岩手医大はこれまで多くの医療人を育て公的病院に供給し続けてきました。毎日約4分の1の医師が、県内の県立病院をはじめ青森、秋田に派遣されています。「昔は半ば強制的に医師を派遣していましたが、今はお願いして行ってもらっています。遠方に常勤するのは簡単ではありません。子どもの転校とかね、そういう犠牲を払って行ってくれる医師とその家族が地域医療を支えているということを知っていただきたい」と話します。
「病院は何らかの悩みを抱えた人が来る場所だから、ホスピタリティも大切です。なので声を集めるため投書箱を作りました」と続ける小笠原病院長。「投書は病院を良くするための貴重な情報源。病院と付属の商業施設の連絡通路から外に出られる憩いの場を作ったり、腰の悪い患者さん用に高さのある椅子を置いたり、みなさんの声が病院を変えていくんです」と話します。声は患者だけでなく職員や医療人からも集めます。ナースステーション脇の当直室では眠れないという職員の声に応え、静かな場所に当直室を新設しました。「投書箱は声です。全ての投書に目を通し、必要な時は私が確認しに行きます。全ての投書に応えるのは難しいですが、必要とされることに気づくことが必要です。矢巾にも内丸にもあるので、誰でも遠慮なく意見を聞かせてほしい」と小笠原病院長。
最後に、健康でいるための秘訣をお聞きすると「人は確実に歳を取るものだから、多少足腰が痛くても薬にばかり頼らずに自分の体を保つよう心がけて欲しい」とのこと。土いじりや家事で体を動かし、家族や友人との会話で脳を活性化させ、自分の健康を維持することで岩手の医療を支えたいものです。