平泉から北上山地に潜り込み、三陸沿岸を北上した後に八戸から津軽半島へ。竜飛崎から北海道へと一筆書きに続く義経北行伝説。そのルートに沿った伝承には大まかなタイプ別の傾向がある。
義経一行が身を寄せた旧家には、御礼の品や名称が残り、旅立った義経一行の武運長久を祈って建立したとされる神社などの縁起も存在する。滞在したという神社仏閣には大般若経の写経や仏像の類いが存在し、その奉納された信仰的な品々は至宝として守り伝えられている。さらに義経や弁慶の超人的な逸話や事象に絡めた由緒とともに語られる巨岩奇岩など信仰的自然物もある。
御礼の品などや寺宝の類いは岩手・青森に多く、人間離れした事象を語るのは北海道に多い。そして、それら伝承の影にはいずれも修験者の姿がちらつく。北に行くにつれ蝦夷地開拓や大陸政策に利用された背景も見え隠れする。
だが、おそらく唯一、前述した傾向に含まれない、じつに生身の人間的な義経北行伝説が山田町には残っている。それが山田八幡宮の創建縁起だ。この神社のご神体〈清水観世音菩薩〉は、屋島の戦いで義経の身代わりとなって戦死した家臣・佐藤継信の念持仏(ねんじぶつ)とされる。
念持仏とは自身の守り本尊として、常に身辺に置いて信仰する仏像のこと。
頼朝に追われ、逃避行の果てに義経が奥州に持ち帰り、さらに極秘裏に平泉を離れる際も持参して、往時、山田を治めていたという継信の長男に形見として手渡したと伝承されるのだ。
命の恩人が肌身離さず大切にしていた念持仏を子孫に直接手渡すなど、仮に義経以外が、義経を名乗って届けても意味はない。そこにこの伝承のリアルがある。
金野静一氏の著書『義経北行』を紐解くと、その門外不出、秘蔵のご神体は、高さ10cmほどの青銅製という。そこには50年に一度、神職たった一人で衣替えが続けられてきたと記されていた。それは深夜、灯りも点けずに行われる秘めたる神事というから興味深い。
それは現在も続けられているのだろうか。安寧の世の中ならいざ知らず、震災大津波もコロナ禍も経てきた今日(こんにち)である。関係者の口から現実を聞きたいと思い、先日、私は八幡神社を訪ねた。そして運良く宮司の佐藤氏から伝承のあらましを伺うことができた。衣替えは資料とは違っていて、25年に一度が真実と知った。前回は平成15年だったとのことで、境内にはその記念の石灯籠も建っていた。また衣替えは神職一人ではなく、限られた関係者によって執り行われるとも聞いた。
次回の衣替えは5年後らしい。拝観できるものではないのは重々承知だが、800年もの昔から連綿と続く作法が今も続いているだけで私は興奮した。そして義経と継信の男気や武士魂のようなものまで今なお守られている気がして嬉しく感じた。