第82回 旧穀町・新穀町界隈(前編)

第82回 旧穀町・新穀町界隈(前編)

もりおかいにしえ散歩
もりおかいにしえ散歩

案内役 真山重博さん

 旧穀町と新穀町、この表題はちょっと紛らわしいですね。どちらも旧町名なのですが、正しくは「旧穀町・ 旧新穀町界隈」ということになります。近接する旧川原町を含め、このあたりは「惣門界隈」と呼んだほうがピンとくるという人が地元ではまだ多いようで、現在は主に南大通二丁目にあたる地域を示します。

いにしえ散歩旧穀町・新穀町界隈マップ

 穀町は江戸初期には三日町と呼ばれていました。師走の9、19、29の3日間、市が立って新山河岸にある藩の米蔵 (現在の御蔵・下町史料館)から米が払い下げられたことからついた町名と伝えられますが、後に石町または穀町となり、南部10万石が20万石に加増された1812(文化9)年、時の藩主・利敬公によって穀丁と新穀丁に分けられ、さらに明治になると「町」に戻り、1963(昭和38)年の住居表示法によって南大通二丁目と清水町の一部へ編入という変遷を辿り、穀町は新旧ともに消えてしまいました。

 盛岡城下には、警備のために四ツ家惣門、仁王惣門、下小路惣門、寺町惣門、夕顔瀬惣門など主要なポイントに検問所が設置されていましたが、中でも最重要とされていたのが新穀町の惣門でした。歴史的な街道筋にあり町家の町並みが復元形成されている鉈屋町は、神子田から入ってくる釜石街道と旧上小路から入ってくる宮古街道が合流した町。旧川原町は北上川舟運の起点で旧仙北町から新山舟橋を渡って入ってくる奥州街道筋。これら幹線道が1カ所に集約されてご城下の出入り口となったのがこの新穀町の惣門ですから、その重要度がわかります。

 惣門の代表格だったせいでしょうか、明治以降もこの一帯だけは「惣門」と通称で呼ばれてきました。「惣門跡」の案内標識に誘われて進んで行くと、「盛岡城警備惣門遺趾」と記された石碑が建っています。この場所に土塁が築かれ、番所には役人が詰めていて、通行人や物資あらためをしていたのだなぁと過去に思いをはせるのもいいものです。鉈屋町や川原町沿道にもさまざまな店はありましたが、この惣門を通過して新穀町に入った途端、人々は道の両側に盛岡の代表的な豪商の堂々たる店構えと、買い物客でにぎわう光景を見ることになったのでした。

(次号、後編へ続く)

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