● 老舗の娘と結婚し 菓子職人の道へ
「元祖明がらす」で知られる遠野市の「まつだ松林堂」。創業156年の歴史を紡ぐ四代目の松田勝夫さんは早朝5時から工場に立ち、50年以上伝統の菓子を作り続ける84歳の現役職人です。
「私の姉と妻の叔母が同じところに嫁いだご縁で、妻と出会いました」。この出会いをきっかけに東京の会社を辞め、明治元年創業の老舗に婿入りし店を継ぐことになりました。「当時は店を継ぐことはあまり深く考えないで結婚しました」と勝夫さん。結婚する前の年に三代目である義父が急逝し直接教わることはできませんでしたが、二代目が残したレシピを基に「明がらす」の製法を再現した義母と妻の和子さんから菓子作りを教わりました。「そうやって仕事を覚えながら、だんだんと自分が継がなきゃならないという気持ちに変わっていきました」と振り返ります。三代目と一緒に仕事をしていた職人が時々手伝いに来ることもあり、一つ一つの動きを見て実際にやって覚え、体に染み込ませて今に至るといいます。
「何も言いませんが、だいぶ苦労したと思いますよ」と和子さん。その日の気温や湿度によって微妙に違う材料の配合などを何となくのあんばいで教えることが多かったそう。そんな中でも勝夫さんは日々研究しながら「これくらいなら上手くいく」という感覚を積み重ねてきました。「かまども薪だったから薪割りもしました。今は機械だけど、当時は生地も手でこねました。でも苦労とは思わなかった、それが当たり前の私の仕事だから」と真摯に仕事に向き合います。そんな勝夫さんを家族は気にかけており、「勝夫さんのことを一番に考えなさいというのが母の口癖でした」と和子さん。東京から極寒の遠野へ来た勝夫さんのために綿入のはんてんや厚い靴下、電気毛布を揃えて大切に迎えたと言います。3歳で実母を亡くした勝夫さんにとって遠野の母ともいえる義母。その義母が亡くなる間際には「こんなに立派になってくれて、ありがとう」と感謝の言葉を残し旅立ったと言います。途絶えそうになった伝統の味が今も変わらずあるのは、勝夫さんの遠く離れた遠野に身を置くという覚悟と慣れない環境でも必死に仕事を覚え、続けてきた苦労があったからでしょう。
そんな義母や店の思い出が残る蔵が3年前の火事で消失。「資材や昔から使っていた道具も焼けてしまいショックは大きかった」と勝夫さんは話します。「代々伝わる100体以上のひな人形も失いましたが、奇跡的に女雛と男雛が焼け残って、一筋の光をいただいたようで、前を向いて進む勇気をもらいました」と和子さん。とても大きな出来事でしたが、幸い店も工場も無事だったため火事の翌日も開店。「これが私の仕事だから、どんなときでも菓子を作り続ける」と店を継いだ当初の思いのまま、今日まで伝統をつないできました。
● インスタグラムで若いファンが急増中
伝統的な和菓子が主流の「まつだ松林堂」は、これまでシニア世代のお客さまが中心でしたが、最近は若いお客さまも増えているとのこと。そのきっかけとなったのが、五代目の奥さまの希実さんがインスタグラムに投稿した動画でした。少し再生速度の速いテンポの良い作業風景が「ずっと見ていられる」と注目を集め、フォロワー数は3万人超え。「ぶどう飴」など店舗でしか手に入らないお菓子を求め、そして勝夫さんに会うため、遠くは北海道、沖縄から足を運ぶ方もいるそう。お客さまに写真撮影を頼まれるなどインスタグラムの反響について「自分の動画は見たことがないから分からないけど、その辺を歩いていると知らない人に声をかけられて、ちょっと恥ずかしいね」と笑顔の勝夫さん。店のアイドル的な存在として、新たなファンを増やしています。
インスタグラムの影響でネットでの取り寄せなど顔の見えないやり取りが増えましたが、それでもわざわざ遠くから店に買いに来てくれる方もいてとても嬉しいと和子さん。「昔と今で時代が変わっても、これまでと変わらず伝統の味と作り手の思い、遠野の温もりを届けていきたい」と信念を貫きます。
「おかげさまで忙しくなって、親父には元気でいてもらわないと困る」と五代目の惠市さん。それに対し「もう息子に任せても大丈夫じゃないかなと思うけど、動けなくなるまでやる」と勝夫さんは返します。惠市さんは結婚と同時に岩手に戻り、勝夫さんと一緒に菓子作りを始めました。口げんかすることもあるそうですが、今は言葉を交わさなくても阿吽の呼吸で作業するようになり25年が経ちます。「伝統を受け継ぎ守り、次の代へ渡すつなぎの役目が自分の仕事」と話す勝夫さんの思いは、しっかりと五代目に受け継がれています。