奥州史を遡っていくと必然的に「前九年合戦」に行き着く。
10世紀の後半ごろから奥六郡(律令制下の陸奥国中部における胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡)を中心に勢力を拡大し、朝廷からも現地支配を任されていた安倍頼時が、より強い権力を得るために領地を拡げようと画策したことが国府多賀城との間に摩擦を生み開戦。その後、頼時の息子である貞任や宗任、頼時の娘を娶っていた藤原経清(清衡の父)も参戦して泥沼化した奥州史を代表する大事件の一つである。
その安倍頼時に『今昔物語集』という文献に収められた、ロマンに満ちた伝承があることを知った。一般的史実で頼時は、前九年合戦の渦中、流れ矢を受けて深手を負い、鳥海柵(とのみのさく)で没したとされるのだが、こちらの伝承は敵将・源頼義との戦いをむしろ回避する姿勢から始まる。
「この国の海を渡った北の奥には遥か遠くまで見渡せる陸地がある。合戦で命を失うより、そこに渡って住もうと思う」。頼時はそう言って一族郎党、その従者など50人ほどで、一艘の大きな船に乗って北へと向かった。海を渡り、やがて遠くまで見渡せる陸地に到着すると、葦原が続く開けた大河の河口を見つけ、そこに船を入れ進んでいく。人影もなく、上陸できそうなところもないまま、底知れぬ深い沼のような川を上流に向かった。だが、どこまで行って同じような風景。遡れども変化がないまま、そのまま30日も遡る。そして頼時らは怪しい地響きを感じる。船中の者たちは恐ろしがり、生い茂る葦の陰に船を隠す。葦の隙間から響きが聞こえる方を見ると、それは武装した胡人(古代中国北方の民)の騎馬兵一千騎余りが出す轟音だった。騎馬隊は次々に河を渡って行く。乗馬したまま渡ることができる浅瀬がそこにあるのかと思い、すべてが渡り去った後、確かめてみると、なんとそこは馬の足など立たないほど深い深い川であった。胡人の軍は何頭もつなぎ合わせた馬を川に乗り入れ、泳がせて渡っていたのだ。頼時らはすっかり仰天し、この者たちと戦うことになったら敵わないと肝を冷やして踵を返し、陸奥に戻って来たという。
これは安倍一族が源頼義との戦いに敗れた後、筑紫に流された頼時三男の宗任が語った話とのこと。丸ごと事実とは思わないが、創作としてもこの元となるだけのリアルな北方の情報が入っていたことが伺える。そう考えると、その時点で奥州が国境や民族間の壁を超えて北方文化圏とつながっていた証しにもなるし、後の奥州藤原氏のダイナミックな人や物や文化の交流にもつながってくる。
おそらく頼時らが旅した「底知れぬ深い沼のような川」とは黒龍江(アムール川)ではないのか。江戸時代、間宮海峡を発見した間宮林蔵は、海峡を渡った先にある黒龍江を遡上し、やがてデレンなる交流拠点の町に行っている。その行程との符合を探ってみたい。できれば現地を訪ねて。