童話作家・詩人として知られる宮沢賢治ですが、晩年建材のセールスマンだったことはあまり知られていません。
賢治は盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)で岩石学を学びました。花巻農学校(現花巻農業高校)での教師時代を経て私塾・羅須地人(らすちじん)協会を設立、レコード鑑賞会を開いたり農民の肥料相談に乗ったりしましたが、結核の症状が出て病いに倒れます。
病状が少しずつ回復してきた賢治を訪ね花巻までやってきたのが、長坂村(現一関市東山町)で東北砕石工場を起業してまもない鈴木東蔵(とうぞう)でした。「石っこ賢さん」と呼ばれたほど石に対する関心が高かった賢治と東蔵はたちまち意気投合し、賢治は東北砕石工場で嘱託として働くことになります。1931(昭和6)年2月のことでした。
同(1931)年9月、賢治は建材のセールスのため上京しましたが、病状が悪化。入院の末、帰郷しましたが東北砕石工場の仕事はやめざるを得ませんでした。賢治が亡くなるのはその2年後、1933(昭和8)年9月21日のことで、満でいえば37年の生涯でした。
賢治が晩年働いた跡地には、1999(平成11)年「太陽と風の家(石と賢治のミュージアム)」がオープン、東北砕石工場で働いた賢治について詳しく知ることができます。