江戸時代末期を代表する蘭学者・高野長英(たかのちょうえい)は1804(文化元)年、現奥州市水沢区吉小路(きちこうじ)に生まれました。
17歳で江戸に出てオランダ医学を学んだ長英はその後長崎に行き、シーボルトの鳴滝(なるたき)塾で医学や蘭学を学んでいます。シーボルトは1796年ドイツに生まれ、日本に近代西洋医学を伝えるとともに、科学的な調査に基づいて日本をヨーロッパに伝えた最初の人です。
長英は1824(文政七)年にシーボルトの弟子になり鳴滝塾に住み込みました。シーボルトから翻訳の仕事をもらい、学資の足しにしています。門弟の中では長英の翻訳能力は抜きんでていて、シーボルトの日本研究に大きく貢献しました。「鯨(くじら)ならびに捕鯨(ほげい)について」、「日本における茶樹の栽培と茶の製法」といった論文をシーボルトに提出しています。
シーボルトとの出会いにより蘭学者として大成した長英ですが、幕府の政策を批判した『夢物語』を出版したことで投獄の憂(う)き目にあいます。
その後、大火に乗じて脱獄、各地を転々としますが、1850(嘉永三)年、江戸の隠れ家を幕府の役人に襲われ自刃(じじん)しました。47年の生涯でした。