詩人として名を遺した立原道造(たちはらみちぞう)ですが、職業は建築家でした。
大正3(1914)年東京に生まれ、東京帝国大学工学部建築科を卒業しています。一年後輩に東京都庁の設計などで名を馳せた丹下健三(たんげけんぞう)がいました。
卒業後の昭和12( 1937) 年道造は石本建築事務所に入所しますが、同年第一詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』、第二詩集 『暁(あかつき)』と『夕(ゆうべ)の 詩(うた)』を刊行し、詩人として知られるようになりました。
翌昭和 13 (1938)年9月19日~ 10月19日までの一カ月間、盛岡の生生洞(せいせいどう)で過ごしています。生生洞は親交があった画家・深沢紅子(ふかざわこうこ)の生家で、 紅子の父、四戸慈文(しのへしげぶみ)の山荘でした。道造が亡くなるのは翌年3月のことで、満でいえば 24 歳の若さでした。同年には第一回中原中也賞を受賞しています。
遺稿となった「盛岡ノー ト」には、こよなく愛した盛岡の人と風土が美しく描かれています。盛岡市郊外愛宕(あたご)山の山頂には、詩碑「アダジオ」が建っています。
愛宕山にある「アダジオ」の詩碑