歌人として知られている石川啄木ですが、一年近く北海道で新聞記者をしていた時期があります。1907(明治40)年5月、啄木は渋民尋常(じんじょう)高等小学校代用教員を経て函館に移りました。函館日日新聞の記者となったのですが、8月25日大火が函館を襲い、職場を失いました。
札幌・小樽で新聞記者の仕事を求めて移動した啄木は、翌1908(明治41)年1月釧路(くしろ)新聞で編集長格として働きはじめますが、長く続きませんでした。同年1月7日の日記に啄木はこう記しています。
「東京に行きたい。無闇に東京に行きたい。怎(どう)せ貧乏するにも北海道まで来て貧乏してるよりは東京で貧乏した方がよい。東京だ、東京だ、東京に限ると滅茶苦茶に考へる」。
啄木の関心は詩から小説へと移りつつありました。1906年には刊行されたばかりの夏目漱石『坊っちゃん』や島崎藤村『破戒』を読み、二人に対してライバル心を抱いています。北海道で過ごすうちに、文学的な環境から遠ざかっているという焦りにとらわれるようになっていったのです。 同年4月、三カ月ほど勤めた釧路新聞をやめた啄木は東京へと向かいます。文学者として身を立てたい、そういう気持ちが東京へと向かわせたのでした。