【死んで生きる】影武者と英雄生存説

【死んで生きる】影武者と英雄生存説

風のうわさ
風のうわさ イワテ奇談漂流

高橋政彦さん

 教科書では戦で死んでいるにもかかわらず、実は生きていたとうわさされた戦士たちの話は多々ある。民衆的観点と感情から、応援すべきヒーローをやすやすと死なせるわけにはいかないのだろう。

 筆頭は悲劇の英雄・源義経。北行伝説を生み、チンギス・ハーンとなったという壮大な夢想を生んだ。

 三日天下の明智光秀にも生存説がある。農民の竹槍ごときで死ぬわけがないという思いが庶民にあったのか、光秀は徳川家康の側近・南光坊天海になったという説もあるようだ。

 幕末から明治維新の有名人・土方歳三や西郷隆盛にも生存説がある。愉快なのは敵同士なのにどちらも北へ逃れた説で共通すること。北方のどこかで手を組んでいたら面白いのにな。

 時代は再びさかのぼるが、石田三成にも生存説がある。死なずに北へ逃れ、津軽為信の家臣となって杉山姓を名乗った説と、秋田の佐竹義宣を頼り、現在の秋田市に帰命寺なる寺を建て、住職として天寿を全うしたという説がある。

 その石田三成の家臣に島左近なる武将がいる。関ヶ原の合戦で死んだと伝わるが、遺体は見つからず、合戦後に京都や琵琶湖竹生島で目撃されたという話が相次いだ。そしてなんと現在の陸前高田へと落ち延びたとする伝承まで存在する。三成以上に私たちにとって身近な土地だ。

 明治43年に出版された『気仙郡誌』には「偉人浜田甚兵衛、石田三成の謀臣島左近の偽名なり。(中略)関ヶ原の戦いに敗れ、流路、米崎村に至り、村童を集めて句読を授け、静かに余生を送る」とある。宝暦11年に著された『気仙風土草』には、老齢となり死を前にして、浜田甚兵衛は自分が島左近であることを告白したとも記されている。

 同市の古刹・欣求院浄土寺には「浜田甚兵衛」の名が記された過去帳がある。名の横に「嶋村左近」と覚え書きされ、さらに慶安元(1648)年8月30日の没年月日が書かれているという。以前、浄土寺のご住職から墓碑も現存すると聞いたが大震災以降どうなっているかは不明だ。

 それにしても三成も左近もなぜ北東北なのか。奥州征伐後に治められたとはいえ中央政権から相変わらず目が届きにくい辺境の地のままだったのか。もしかすると奥州に落ちた者は、もはや「死に体」と考えられたのではないだろうか。牙を抜かれ反意もなしと見て見ぬ振りするのが暗黙の了解だったのではあるまいか。

 仮説はもう一つ。彼らが本人か本人を語った偽者か、その真相は不明だが、ならばむしろ「成り済ますべく主を失った影武者の成れの果て」と考えれば、複数の生存説が同時に残る理由もしっくりくる。

 やはり歴史は裏の深読みが面白い。

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