昭和25年3月、中尊寺金色堂に安置されている歴代奥州藤原氏のご遺体調査が行われた。戦後たった5年後の出来事に思いを馳せるだけで私は震えるほどに興奮してしまう。これが今日に至るまで唯一無二の学術調査であり、藤原氏のミイラに科学の手が入った歴史的快挙だからだ。
学術調査団には考古学・歴史学・医学・人類学など、広い分野の権威が名を連ね、その研究結果は『中尊寺と藤原四代』としてまとめられ、朝日新聞社から出版されている。
当時の最先端科学で検証された金色堂須弥壇内(しゅみだんない)のミイラは、驚くべき数々のメッセージを現代人に与えてくれた。その一つが、秀衡の三男・泉三郎忠衡(ただひら)のものと言い伝えられていた首級が、実は四代泰衡(やすひら)のものであったという一つの結果である。まことしやかに伝承されて来た定説であっても、科学的調査で修正される可能性があるということを教えてくれたのだ。こうした大どんでん返しもありえるという点で、ロマンある歴史の科学的検証は、ある程度必要なのかもしれないと私には思える。
その首がもともと泰衡ではなく、忠衡のものとされて来た理由には、平泉が滅ぼされるに至った不甲斐ない嫡男泰衡が、先代らと同席できるわけはあるまいといった先入観があったに違いない。それならむしろ平泉のために命を賭した義経を支えた忠衡こそが金色堂に奉られるべき、そう後世の人々は考えたのではなかろうか。
伝言ゲームの中で真実が湾曲されることはままあるが、私的には意図的に首の主を変えて伝えることで、忠衡が義経らと北行の旅に出たことを秘匿(ひとく)したのではないか考えたいのだが。
首の正体が忠衡ではなく泰衡だと認められた最大の理由は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記される 「あえて切れない刀で何度も頭部を斬られた云々」という泰衡への非情な仕打ちと符合する痕跡が確認できたことだったという。泰衡は成す術なく討たれてしまった駄目な跡継ぎではなく、最後の最後まで抵抗した奥州の若き覇者だったということの証しとして須弥壇内に収められたのだろう。その首桶に命の再生を祈念する古代蓮(こだいはす)の種が入っていたことも信仰上重要な事実だ。
ところでこの遺体調査では、初代の清衡(きよひら)公から四代の泰衡公まで、それぞれのミイラの安置や保存や死亡直前の健康状態、死亡年齢や死因、生前の体格や血液型、歯の状態などまで、詳細な調査結果がまとめられている。それによると死因は清衡公と基衡(もとひら)公は脳溢血の疑いがあり、血液型は清衡公と秀衡(ひでひら)公はAB型、基衡公はA型、泰衡公はB型とわかった。
令和の現代、過去の調査から72年が過ぎた今の最先端科学で改めて徹底調査したらどんなことが新事実や改訂情報として得られるのだろう。平泉が世界遺産登録されて11年だが、そろそろ第2回の奥州藤原氏遺体調査を実施してもらいたいと切に願う。