【神隠し】弱い存在を守れるか否か

【神隠し】弱い存在を守れるか否か

風のうわさ
風のうわさ イワテ奇談漂流

高橋政彦さん

 少し前のこのコラムで、「夢遊病」と題し、我が幼少期の、いわゆる夢遊病としか思えない不思議かつ仄(ほの)かに恐ろしい記憶を書いた。しかし今、あれが単なる精神的ストレス、過度の疲労などを原因とするものではなかったかと疑念に思い始めている。

 集英社文庫版の『遠野物語』の巻末に柳田国男についての解説文がある。長谷川政春という国文学者によるものだ。ここに柳田の生い立ちなどがエピソードとともに記されているのだが、その一節にこういう文を見つけた。

 《柳田は「神隠し」に遇いやすい性質で、人一倍感受性の強い子供であった。このような子供はしばしば世間には居るものである。》
(原文ママ)

 なるほど、子どもの中には「神隠しに遇いやすい性質」の子がいるものなのか、と私はハッとしたわけである。

 私のあの出来事は小学3年の時、風邪で寝込み、平日一人で家にいた時の体験である。発熱し眠っている間に見た「歩く夢」が、実は夢うつつな状態ではあったが、外を歩いていた現実だったのだ。運よく我に帰った時、私は河口付近の岸壁に立っていた。一歩間違えると海にドボンである。目撃者がいなければ、これはもう「神隠し」に遭ったというより他にない。永く密かに「夢遊病」だったのだろうと思って生きてきたが、ふと、あれは「神隠し未遂」だったのかもしれないと気づき、いっそう肝を冷やした。

 昔から、現代に至るまで、突如として子どもが消えるという事件事故は多い。かつての日本は、天災、飢饉、貧困という逃れようのない背景から、「神に隠された=神に召された」子どもが多かった。そんな時代があったというのは、それこそ『遠野物語』から簡単に読み解くことができる。生命とは脆弱なもの。明治期あたりまでの日本人の生命観を指し、日本民俗学が「七つまでは神のうち」と説いた根源も実はここにある。人は7歳過ぎて初めて神の手を離れるのだ。

 現代であっても、ニュースに取り上げられるだけでも年に何人かの子どもが行方不明となっている。そのつど国民みな心配したり、心を痛めたりする。時代は移っても「神隠し」は時おり起き続けている。私の記憶の体験もそれに類する出来事であり、たまたま運よく未遂に終わっただけだったとしたらゾッとする。このようなことは案外身近に、多々起きていることなのではないかと思えてきて、そら恐ろしく感じるのだ。

 むろん事故ではなく、事件性のあるものも少なくなかろう。いつの時代も人間として未完成で、弱い幼少期の子どもたちというのは、ひじょうに危ういところで生かされているものなのだろう。何世代もが一つ屋根の下に暮らすことが少ない現代であれば、子どもたちを「見守る」という防御策は希薄になる。そうした現代なりの理由で、子どもの身は実はかなり危ういわけだ。事件や事故に巻き込まれないよう、神に隠されないよう、せめて欠如しがちな地域コミュニティーの強化を実践せねばなどと、孫を持つ世代の一人の人間として強く思うのである。

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