【静御前伝説】あの世に行っても美女は引く手あまた

【静御前伝説】あの世に行っても美女は引く手あまた

風のうわさ
風のうわさ イワテ奇談漂流

高橋政彦さん

 源義経には生前、死後を問わず、たくさんの伝承が全国各地に残されている。とりわけ奥州から北に向かっては生存(不死)伝説が一本の線でつないだように点在する。そんな義経には静御前という愛妾がいたが、この静にも義経同様、多くの伝承が残る。その範囲は義経を凌ぐ全国規模だ。各地の「静御前の墓」が今も地元で愛され続けているのはその生涯が深い悲しみに満ちているからだろう。

 有名な「静御前の墓」を、遠隔地から順に紹介しておきたい。

 山口県山口市――生きる希望を失い、剃髪して尼に。諸国を流浪した後に当地でひっそり没した。

 香川県東かがわ市――母と諸国をお遍路するも、建久元年11月、病死の母を追うように亡くなる。

 兵庫県淡路市――鎌倉の慈悲で命を助けられ一条能保に預けられたが建暦元年冬に47歳で没した。

 新潟県長岡市――平泉を目指し越後に出るも、病に伏し、建久元年4月26日、この世を去った。

 埼玉県久喜市――文治5年9月15日に亡くなり、高柳寺境内に埋葬され、墓上に杉が植えられた。

 群馬県前橋市――鎌倉に放免され、京へ向かう途中、この地で病死。「静様」なる祠あり。

 福島県郡山市――義経が平泉で死んだと知ると池に投身し義経を追った。静町に静御前堂あり。

 悲哀に満ちた静御前の墓がある、そう名乗る地の多さは、運命に翻弄された不遇な人生に、死後ぐらいは安住の地を与えたいという民衆の願いがあったからに違いない。

 さて、ここからは先日、予備知識なしに偶然出会った静御前にまつわる話である。

 仙台の奥、秋保温泉から山形の山寺に抜ける県道62号を車で通過していた時のこと。「静御前の墓」と記された標識があることに気づいた。すぐに調べるとこの地は清水窪といい、その読みは「しずがくぼ」で、かつては「静ヶ久墓」と表記したらしいことがわかった。 「静ヶ」という表記で思い出すのが、宮古市川井・鈴久名の「鈴ヶ神社」だ。「鈴ヶ」の名は静が訛ったもの(スズカ)である。神社由来によると、金売吉次に連れられ、義経一行とは別ルートの秋田経由でこの地に入った静を、土地の人たちは閉伊川沿いの切立つ高台に館を建てて匿った。隣接する箱石・山名家に身を寄せていた義経と静は、ここで束の間の幸せな時を共にした。義経が北へ旅立った後、懐妊していた静は難産の末に命を落としてしまう。鈴久名の人々はその亡骸を手厚く葬るが、墓は別な場所に作ったという。

 全国各地にたくさんの墓が残るというわけを「安住の地を与えたいという民衆の願い」と説いたが、ここ岩手における静伝説は、義経北行(生存)伝説と連動し、最終的には亡くなるものの、その死のギリギリまで静の幸せが語られている。そして二人の間に生まれた子がいたという伝承へと継がれていくのも興味深い。

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