古代東北の民エミシ討伐で知られる坂上田村麻呂は、802年に征服地の城柵として胆沢城を築いた。以降、胆沢城は奥州藤原氏が登場するきっかけとなる後三年合戦(1087年)の頃まで、軍政をつかさどる役所・鎮守府として機能した。鎮守府胆沢城には、地方を治めるための役人(国司)が朝廷から派遣され赴任していたが、同時に実務遂行のため下級の地方官人(在庁官人)が現地採用されていた。それが陸奥国の豪族・安倍氏。この長・安倍頼良(あべのよりとき)は、やがて律令体制が崩れると力を強め「六箇郡の司」と呼ばれるようになる。六箇郡とは朝廷が陸奥国中部に置いた六つの郡の総称「奥六郡」のことで、胆沢、江刺、和賀、紫波、稗貫、岩手という、つまりは現在の奥州市から盛岡市あたりを指す。
さて、前置き的説明がだいぶ長くなってしまったが、話は「安倍道(あべみち)」についてである。
勢力を確かなものにしていた安倍一族は、自ら治める奥六郡の南と北、衣川柵(ころもがわのさく)と厨川柵(くりやがわのさく)を主要道で結んでいた。奥州藤原氏以前、重要な陸上交通路であったこの「安倍道」について、私は前々から大きな関心を抱いていた。しかし、なかなかフィールドワークできず、詳しく調べるに至っていなかった。
しかし、先日、県道13号盛岡和賀線の花巻市石鳥谷の産直に立ち寄った時のことである。ふと敷地のはずれに「石碑由来」と記された案内板が立っているのに気づいた。近づいて行くと傍らにゴロンと大きな岩があり、文字が刻まれているのがわかった。これが案内されている石碑のようだ。早速、説明文を読む。
「この石碑は大きく二正面になっている。右正面に天照皇大神を中にして、右に八幡大神、左に春日大神、左正面には土佛観世音と刻まれてある。明治二十四年十一月十七日大興寺第三十世祖量圓宗大和尚の時、松林寺、大興寺、長谷堂、冨澤の講中の村人が西山より石を運び安倍道の三又路に建てたものであり、二正面石はこの石だけである。(後略)」(表記は原文のママ)
私は静かな感動を覚えた。ここが「安倍道の三又路」であり、少なくともこの石碑が建立された明治24年には「安倍道」がこの地域の主要道として生きていたとを知ったからである。そこに今自分が立っていることにも興奮した。
私は帰宅後すぐに関係資料と地図を広げた。双方を照合しながら、先ほど安倍道に出会った花巻・紫波界隈を調べていく。
花巻湯本地区を起点に北へ、古道を探ってみた。松林寺、長谷堂、大瀬川館、黄金堂、隠里寺、願円寺、松森山、新山神社里宮、源勝寺跡、弥勒地、そして志和稲荷…。資料の説明文に出てくるポイントを指でたどるうち、興味はさらに深まった。南の衣川柵から、北の厨川柵まで「安倍道」を縦断踏破しよう、そう誓った。そこにはきっと往時と変わらない風が吹き渡っていることだろう。一千年前のロマンが心をくすぐり始めた。